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2008/04/02

永遠の愛

説教83:像を介さぬ認識について

 使徒パウロは、「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け・・」(エペソ4:23)と言う。私たちが真に神を礼拝し、仕えるには、心の底から新たにされることが必要なのである。
 エックハルトによれば、私たちが新たにされる方向性は、実に自分の生来の固定概念や戦略から自由となり、自ら無となる方向なのである。しかし、なぜ「無」なのだろうか。それは一つには、神が「無」なるお方だからである。その意味は、神は存在しないということではなく、神はこの世的な感覚では決して捉えることのできないお方、それらを遙かに超えたお方だということである。
 この「無」へと向かう方向性をエックハルトは「離脱」と呼ぶ。それは、耐えざる自己否定の実践であり、パウロが言う「日々、自分に死ぬ」ということ、また、キリストの「十字架を負いて我に従え」との命令への従順でもある。その行方には、いったい何があるのか。それは、単なる自己破壊なのか、それとも自己への根元的な回帰なのか。前者は性悪説、後者は性善説に帰結する。しかしもっと深い意味では、それは、永遠の礼拝、私たちの天上の住まい、天における栄光に関係するのである。
 私たちの自己が純粋になればなるほど、私たちは、ますます良く神を知り、愛し、礼拝できるようになる。私たちの心に、主イエスの主権が啓示され、王の王、主の主であるお方の麗しさに包まれるて礼拝するとき、その永遠の時間の内に、私という存在は、もはや必要ないように感じられる。
 この自己喪失の旅は、いつまで続くのか。私という一つの有が、永遠の前に砕けて散り、無に帰するのはいつなのか。エックハルトは言う、「この一なるものの内で、私たちは、有から無へと、永遠に沈み行かなければならないのである」と。「永遠?」、そうそれは永遠に続くのである。私たちの自己が神の前に喪失するためには、実に永遠の時が必要なのである。それは、神が私たちを永遠の愛で愛するからであり、私たちは神の前に、永遠の存在、すなわち神の一人子として創造されたのである。

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