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2008/03/31

天の光

説教71:無である神について

 「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。」使徒行伝9:8
 サウロの肉体の目を盲目にしたのは、目映い天空からの光であったが、サウロの心を照らしたのは、輝くことのない天からの光であったとエックハルトは言う。そのように天は輝くことがなく、天からの光も輝きを放つことはないと。「天の光とは、神である光のことであるが、その光は人間のどんな感覚でもとらえることができない光なのである」とエックハルトは言うのである。
 このような描写と私たちの思い描く天のイメージは、なんとかけ離れていることだろうか。しかし彼は言う、「それゆえ、魂は神を見出さないのである」と。主イエスも言われた、「わたしが地上のことを話してもあなたが信じないのなら、もし天上のことを話したらどうして信じられるだろう」と。それほど、天と地は異なっているのであるが、しかしその差異は、この地上と天上の差異ではなく、あくまで私たちの心と天上の世界の差異なのである。
 それでは、どうしたら私たちに、天上のことが理解できるのだろうか。それには、あのときのパウロのように盲目になることが必要である。パウロの目がこの世界に対して盲目となったとき、そのとき彼は神を見出したのであった。もっともパウロはその後、盲目から癒されたのだが、彼の感覚はその後も、この世界に対して盲目であり続けたのであった。それゆえ彼は、「私は、すべてのものを糞土のように思っている」と言ったのである。
 エックハルトの言う「盲目になる」とは、すなわちこの世の感覚を捨てるということである。そしてそれは、この世のことよりもむしろ、天上のことを思うときに成すべきことなのである。つまり、この世の延長で天上のことを考えるべきではないということである。私たちがそこに入るには、あらゆるこの世的なものを捨て去らなければならない。この世における栄光を捨てなければならないのである。光輝く栄光さえも。キリストの生涯がそのことを啓示している。彼は悲しみの人で、病を知っていた。そして、甦った彼の姿にも輝きはなかったのである。
 エックハルトは言う、「神へはいかなる入り口もないのである」と。入り口が無い以上、そこへ入ることは不可能である。そればかりか、そこから放射して来る光さえ、厳密にはこの世のものであり、私たちを惑わすものでさえあり得る。そこで彼は、まったく新しい方法論を提示する。「これはたいへんにむずかしい問題であるが、つまり、まず捜し求めていく知性の内へと突入し、飛躍し、そしてこの探し求めていく知性がこんどは、もはや探し求めることのない知性の内へと、つまり、自分自身の内で純粋なひとつの光である知性の内へと飛躍しない限りは、天使といえどもこの思惟に関して何も知ることはない」と。
 この従来の知性の上に座すところの新しい知性を働かせるために、いま私たちは、「自分を捨て、日々十字架を負いて我に従え」との主イエスのご命令に、全力で邁進する必要があるのではないだろうか。

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