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2008/03/28

神とは?

説教52:三つの内なる貧しさについて

 「神とはいったい何か」、これは、人類にとっての永遠の疑問と言えるだろう。しかし、このような本質的な疑問における難点は、それを考えているのが、あらゆる意味で不完全な自分であるという点である。つまり、「神とは何か」という問いは、「神とは、一般的に何なのか」という問いではあり得ず、実際はせいぜい「神とは、私にとって何なのか」という問いでしかないということである。
 そこで、この問いのできるだけ一般的な答えを得ようとするならば、自分の考え、すなわち自分を捨てる努力をする必要がある。そして、それはエックハルトによれば皮肉にも、何も考えないことなのである。しかし、人の罪深さの本質は、知識よりもむしろ意志の方にある。そこで、エックハルトは、何かを意志することさえも否定する。何も意志しない人こそが聖書に言う「心の貧しい人」だというのである。そればかりか、彼はさらに先に進んで、人が精神的なものをも含めて、何も所有しないことを勧めるのである。
 しかし、そのようにして、でき得る限り偏見を除去し、考えることさえやめて(それでどのように探求できるのかは別として)探求した結果、その人が、ついに一つの神概念を手に入れたとしよう。ああしかし、それも所詮、彼だけに通用する神でしかあり得ない。というのは、それを考え、それに同意したのが彼自身だからであり、もっと本質的には、彼は自分と彼が発見した神以外に、何か別のものが存在するということさえ証明できないからである。
 しかし、ここに驚くべき帰結が存在する。すなわち、神とは、そのように探求すべき対象ではないということである。そして、今まで私が神と呼び、探求と信仰の対象としていたものは、実は「神」というよりも、むしろ私の「神概念」であったということである。そして、さらに戦慄すべきことは、そのような薄っぺらなものでない真の神が存在されるのであり、私の知性は、いまそれに向けて飛び立とうとしているということである。
 エックハルトは言う、「しかし知性はさらに先を求めるならば、知性は思惟をさらに越えて進んでいく。知性は周囲をめぐり、そして探す。知性はあちらこちらと偵察しつかんだり、失ったりする。捜し求めるこの知性の上には、さらにひとつの別な知性がある。この知性はそこではもう捜し求めることもなく、かの光の内に包み込まれた、その純粋で単一な光の内に立つのである。つまり、この光の内で魂の一切の力が高まったのである。諸々の感覚は思惟の内へと飛翔するのである。これらがいかに高く、いかに測り知れないものであるかは、神と魂のほか、何ものも知ることはない」と。
 しかし、私は思う。人が主イエス・キリストを神と信じるということこそがまさにここで求められていることなのだと。というのは、キリストを神と信じることは、つまり神のことを何も考えないことになるし、自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従うことは、自ら何も意思しないことになる。また、キリストのためにすべてを捨てることは、何も持たないことになり、キリストはそのような私に、百倍の祝福を与えると約束して下さっているのだから。

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