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2008/03/13

愛の一性

説教28:捨て去るということの意味について

 主イエスは言われた、「わたしの愛の内に留まりなさい」と。もし私たちが主イエスの愛の内に留まるならば、多くの良き実を結ぶことができる。しかし、どうしたら私たちは、そこに留まり続けることができるのだろうか。
 エックハルトは言う、「愛には、なぜ、といういかなる理由もない」と。つまり、私たちが主イエスの愛に留まるための理由は、何もないのである。というのは、もし私たちが、自分の利益のために主イエスの愛に留まろうとすれば、それは、純粋な動機からではなく、主イエスを自分のために利用しようとしていることにもなるからである。しかし、私たちがもしそのような外的な動機ではなく、純粋に自分の意志だけで主イエスに従って行こうとするなら、今度は自分の内の罪の根というか邪心がその妨げとなってくるかもしれない。そこで主イエスは言われたのである、「自分を捨て、自分の命を憎まなければ私に従って来ることはできない」と。
 エックハルトがこの説教で説いているのは、この「自分を捨て去る」ということの意味についてであり、それは、主イエスの愛の内に、真に留まるということの追求方法なのである。つまり彼によれば、「すべてを捨て去る」ということ以外に方法はない。しかも、それを何の為ということなく行い、一度捨て去ったものには、二度と目を向けることもなく、思い出すことさえ無いというように完全に捨て去らねばならないのである。そう、最初からそれらを持っていなかったかのように。
 そのとき、主イエスが語った言葉があなたに成就する。すなわち、「わたしはもはやあなたを弟子とは呼ばなず、友と呼ぶ」と。しかし、主イエスの友と呼ばれることは、この世の事柄ではない。その意味は、文字通り、あなたに主イエスと同じ権威が与えられるということである。すべてを捨て去ったあなたに残されたものは、神がご自身の形に創造されたあなたの魂であり、そこにあなたと神との間に「聖なる同等性」、すなわちエックハルトの言うところの「一性」が生じる。いや、この一性というものは、生じたのではなく、最初からあったもの、最初に造られたものなのであり、その意味で、それは「残される」というべきであろう。そして、この一性こそ、エックハルトによれば、父なる神と御子の間の一性と同じものにほかならないのである。もちろん、私たちは御子ではなく、私と父との一性も御子と父との一性とは区別され得る。しかしそれでも、それら二つは同じ一性であることに変わりないのである。しかし、この二つの一性が同じものであるということは、驚くべきことである。それは、私たちが、父のまことの一人子であることを意味しているからである。

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