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2008/03/12

献身における新しい希望

説教24:自分自身を脱ぎ捨てるということについて

 「自分を捨て、日々十字架を負って我に従え」とキリストは言われた。しかし今日、この命令を文字通りに実行している人が果たしてどれだけいるだろうか。たとえ牧師であっても、なにがしか自分の楽しみを一つくらいは温存し、それが奪われることを忌まわしく思ったり、あるいはそれがあればこそ、信徒の思いも理解できるというような考えを抱いて生きているということが往々にしてあるのではないだろうか。まして、信徒にしてみれば、自分は生身の人間であり、そのような仙人かはてまた生ける屍のような生活ができようはずもないと思いこんでいるのではないだろうか。しかし、上記のような状況こそが実は、私たちが今に至っても主イエスに完全に従えずに、たわいのない罪に日常的に陥ってしまっている原因であるとは思えないだろうか。このように、私たちを古い自分に縛り付けている一つの原因は、往々にしてそれが意識されていないことも多いようだが、「自分を捨てること」すなわち「自分に死ぬこと」への恐怖なのである。しかし、もし私にそのことすなわち、自分自身を捨て去るということをあえて成す勇気が与えられたなら、そのような私にとっては、もはや死さえも最悪の事態ではないことになる。というのは、そのとき私は、すでに自分に死んでしまっているからである。そしてそのとき、私とキリストの関係は、もはや救い主と救われるべき罪人の関係ではない。なぜなら、私を脱ぎ捨てた私は、もはや私ではなく、私の抜け殻であり、そこには罪を犯す可能性はもはや残されていないはずだからである。しかし問題は、そのような抜け殻の私が、私と言えるだろうかということと、そのような者が、神のために何か有益なことを成し得るのかということである。
 聖書に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世記1:26)とあるように、神はご自分にかたどって人を創造された。このことからエックハルトが戦慄をもって認識し、また我々に提起することは、私たちの内には、神のすべてが形をとって宿っているということである。しかし、私たちの内にあるのは、あくまで神の「形」なのであって、神ご自身やその徳ということではない。しかし、エックハルトによると、もし私たちの中から、不純なものが排出されるなら、神の恩寵が私たちの内に自動的に流れ込んでくる。それは、神の臨在そのものである。なぜなら、私たちは、それらの恩寵の入れ物、すなわち神の形に創造されたからである。そしてそれは、私たちが獲得することのできる最高のものであり、これに比べたら、すべてのものは取るに足らない糞土のようなものなのである。
 かくして、エックハルトにとって「自分を捨て、日々十字架を負って我に従え」との命令は、苦痛を伴うものではないばかりか、それは、献身の障害における新しい希望と底知れない可能性への開かれた扉なのである。

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