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2008/03/02

万物の相続

説教17:自分の魂を憎むということについて

 主イエスは、福音書の中で「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言っているが、エックハルトはその言葉の中の「命」という言葉を「魂」と読み換えてこのメッセージで取り上げている。すなわち、エックハルトは、この世で自分の魂を憎むことを提唱しているのである。
 なぜ私たちは、この世において自分の命を憎まなければならないのか。その理由は、まず、私たちが自分の「魂」のことを思い描くとき、実は魂の本質を思い描いているのではなく、なにか得体の知れない、的外れなものを思い描いていることになるからである。というのも魂は、神と密接な存在だからである。そのようなものを軽々しく取り扱うべきではない。それは、神がご自身の形に造られた聖なるものなのである。
 第二に、魂はそれ自体、それを見ている当の本人なのだからである。しかし、主はまた「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と言われたのではなかったか。そして、教会ではときおり、ここの箇所から、神から造られた自分を大切にするように勧められているではないか。まさにそのように、この「自分を愛する」ことと「他人を愛する」ことは、切り離して一方だけを考えることのできないものであり、そのような愛で私たちは、魂を愛すことを命じられているのである。
 それでは、この自分と他人を同等に愛するところの愛が、いかにして魂を憎むことになるのだろうか。それは、魂が永遠の存在であることによる。もし魂が、すなわち人の命が永遠の存在でなかったなら、「自分と他人を同等に愛する」ということは、不可能であろう。その場合には、自分を愛する者は他人を損ない、また他人を愛する者は自分を損なうことになる。しかし、魂が永遠の存在であるなら、そのことが可能なのであり、また「自分と他人を同等に愛する」ということは、この魂の永遠性を信じ告白することでもあるのである。
 そして、エックハルトによれば、この「自分と他人を同等に愛する」ということは、自分だけを特別に愛するような愛とは、真っ向から対立するものであり、それは、自分という閉鎖された存在意識を超越した、知性の新しい活動なのである。すなわち、それは古い意味の「自分を愛する」ということと対比したときには、むしろ「自分を憎む」ことになるのであり、それは同時に、古い意味の自己愛に訣別し、新しい意味の愛に生きることを決意することなのである。
 自分の魂を憎むことの必要性の最後の理由は、魂の不完全性にある。神は、魂をご自身の完全性、永遠性に象って創造され、それを時間の中に置かれたのであった。つまり、魂は、完全なものとして創造されたのではなく、完全になるべきものとして創造されたのであった。そして、魂が完全になる途上においては、魂は自己が本来成るべき姿から無限に隔たっていることを自覚し、嘆き悲しむのであり、それが魂の成長の力でもあるのである。
 この自分の魂を憎むということなくして、万物を相続することはできない。なぜなら、それを相続するのは、私であり、同時にあなたであり、さらに御子イエスであるからである。私は、私自身と万物を御子イエスの内に見出し、同時に天の父と御子イエス、そして万物を自分自身の中に見出さなければならないのである。

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