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2008/02/29

弁証法的な展開

説教12:神のために神を捨て去るということについて

 「自分を捨て、自分の十字架を負って私に従え」と主イエスは言われた。エックハルトによれば、この「自分を捨てる」ということが、実は人の成し得るもっとも革命的、生産的かつ意義のある行為なのである。しかし、文字通り自分を捨てるということは、自殺行為ではないのかと思う人もいるだろう。しかし「自殺」とは、自分の存在を断とうとすることであるが、「自分を捨てる」とは、自分の存在を保ちながらそれを無にすることであり、両者には大きな違いがある。そもそも、「自殺」は自分のための逃避行為である。たとえ「死んでお詫びを・・」というような場合であっても、それは自分が他の方法による解決方法を持っていないことによるのであり、その上、相手方にとってみれば、迷惑でこそあれ、決してありがたいようなものではない。つまりそこでは、他人のために行っているつもりが、実は自分のためになってしまっているというきわめて滑稽かつ驚愕すべき事態が起こっているのであり、自己が自己に関わることを意識的に取り扱い始める時に、そこに弁証法的な展開が現れることにより、事態を複雑怪奇に着色してしまうということが起こり得るのである。
 それに対して、「自分を捨てる」という行為は、自分の自己実現を犠牲にして、神の御心を行うことであり、もっとも信仰的な行為であり得るのであり、ここでエックハルトが提起している「神のために神を捨て去る」という行為は、ある意味でその、つまり「自分を捨てる」という行為の弁証法的な展開なのである。つまりそれは、見方によっては、背信行為であるかもしれないのだが、またさらに高度な信仰の段階でもあり得るのである。それでは、どのようなときにそれが高度な信仰の段階となるのだろうか。それは、神を捨てることが純粋に神の栄光となる場合である。しかしそのためには、「捨てる」という行為自体がまず高められ、純化される必要がある。
 しかし、ここにまさにエックハルト独特の弁証法的展開が存在するのだ。それは実は、きわめて福音的なものである。というのは、「神は、実にその一人子を給うほど世を愛された」、それなら「御子のみならず万物を給わらないはずがあろうか」。つまり、神にとって最も大きな関心事は、私たちのことである。つまり、私たちの幸福は、神にとっての喜びなのである。そして同様に、神を喜ばせることは、また私たちの喜びなのである。
 「捨て去る」という行為は、当座は辛いことかもしれないが、すべてのことにおいて神を第一にすることが神を喜ばせ、そのことが「捨て去る」という行為により実現され得るなら、それは私にとっての喜びとなる。そればかりか、神を第一にすることは、そのまま私にとって、もっとも幸福なことなのである。このように「捨て去る」という行為が神と私の間の愛により高められたとき、エックハルトが提起した「神のために神を捨て去る」という行為が意味を持つようになる。
 つまり、「捨て去る」という行為の目的を考えてみたとき、そこにたとえ何か、自分の幸福を願い求める要素があったとしても、それは神の良しとするところであり、私たちの父は、むしろそのことをうれしく思われるであろう。しかし、もし私が自分の意志で、父に何も期待しないことを決意するなら、おお、それを天の父は、きわめて喜ばれないだろうか。というのは、それは私たち神の子とされた者たちが、正にその愛する、そしてまた自分を愛して下さるところの天の父に似たものとなろう、もしくは、天の父のご性質に与ろうと願うことであるから。
 しからば、私たちが受け取ることを最も期待するもの、神の御心をのみ願い求める者たちが、切に得たいと望むただ一つのものとは何だろう。おお、それは、それは神ご自身である。私が切に得たいと望むただ一つのもの、この世界のすべてと引き替えに得たいと思うただ一つのもの、それは、神ご自身なのであり、再び、その神ご自身を受けることをさえ放棄することを私が意志するならば、神はそのことを賞賛したもうと共に、そのような者にご自身を何にも増して、最高のかたちで与えようと欲せられるに違いないのである。

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