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2008/02/28

不思議なこと

説教11:純然たる無である被造物について

 洗礼者ヨハネが生まれたとき、人々は言った、「この子からは何か不思議なことが起きるのでかないか」と。彼には、神の御手が及んでいたからである。私たちは、「不思議なこと」に興味を持つ。私たちが人生で求めているのは、実にこの不思議なことについてなのである。しかし、ヨハネが生まれた時代には、そのようなことがほとんど何も起こらなかった。世に罪が満ち、最低の状態にあったからである。そのようなとき、人々は無意識の内に、神を探し求める。そこに不思議なことが起こるのを期待するのである。人々は、ヨハネが特別な仕方で生まれたのを見て、そこに神の介在を認め、彼と共にまた不思議なことが起こるのを期待したのであった。
 今日でも人々は、「不思議なこと」を期待している。テレビを見ても、本を読んでも、そこで話題になっているのは、やはり「不思議なこと」なのである。それは、どのようにして、また何のために、起こるのを待っているのだろうか。
 「造られた一切のものは無である」とエックハルトは言う。私たちが、自分や自分たちの業や努力の中に「不思議なこと」を捜し求めたとしてもそれはそこには存在しない。というのも、この世界のすべてのことには理由があり、それらは因果関係に支配されているからである。それらは、ある意味で無機的、自動的に起こって行くことであり、それ自体に根元的な存在性(オリジナリティ)はない。そこで、それらのものは、それ自体無でしかないのである。そこで人の心は、本来そのようなものには決して満足できずに、返って「不思議なこと」を慕い求めるのである。
 しかしエックハルトによれば、この世界でもっとも不思議なこと、人の心を魅了することとは、魂の内に御子が誕生することなのであり、そのことが起こるのを全宇宙は待ちこがれているのである。パウロも「全被造物は、実に切なる思いで、神の子の出現を待ち望んでいる」と言った。
 それではそのことは、いったいいつ起こるのだろうか。エックハルトによれば、それは「時が満ちたとき」である。この「時が満ちる」というのは、再びエックハルトによると、「時の内で人の心が永遠の内へと移され、一切の時間的事物がその人の内で死するとき」なのであり、それはパウロのように、キリストのゆえにこの世界の一切を糞土のように思うようになることを指している。しかし、このことを妨げる物が今日の社会に氾濫しており、人の心はそれらの空しい快楽に魅了され、真の自由を獲得できない状況にある。どうしたらそのような状態の人の心に、キリストが生まれるということが起こるのだろうか。エックハルトは、この説教の中で、その「どうしたら」ということには触れていないが、キリストは宣教命令により、ご自身を信じる者たちにその努めを委ねられたのであった。
 だから、私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、霊的な戦いであり、それに勝利し、魂を勝ち取るための武器を神から与えられているはずなのである。そして、それを再発見することがこのエックハルト研究の目的なのである。

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