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2008/02/26

御子を通って

説教10:神の根底にまで究めゆく力について

 「神は、我々から遠く離れておいでになるのではない」とパウロは言った。もっとも、生まれながらの人間は、神に近づく道を持たず、神から断絶された知識の内に日を過ごしている。しかし、神は時を定め、神の側から私たちに近づいて来て下さった。それは、ご自身とその御心を世に明らかにするためであった。そこで神は、私たちから隠れておられるのではなく、私たちに見いだされ、知られることを強く望んでおられるのである。
 そこで人は、修行によってある程度は神に関する知識の片鱗を得ることができるかもしれないということをエックハルトは否定しない。しかし他方で、神は私たち人間の目に見えないお方であり、私たちの認識能力を遙かに越えたお方である。その上、私たちの五感も年齢と共に衰退していく運命にある。しかし、エックハルトによれば、それでもなお、私たちには神を知る確かな道がある。それは実は、「自分自身の内へと向きを転じて、造られた一切の事物から自由となり、真理の真なる鍵をかけて、自分自身の内にしっかりと閉じ隠ること」なのである。それにより、この世界の様々なものによる気散じから身を守り、ただ神にのみ心を向けることであり、それは一見、オーソドックスな祈りの姿勢にも見えるが、エックハルトにおいては、それは神に向かって、己の願いを語ることではなく、心の中におられる神と向き合い、神をありのままに把握することなのである。そして、再びエックハルトによれば、神は人がそれを成し遂げるために、特別な魂の力を人に与えられたのであり、その力は、ただ御子イエスにおいてのみ私たちに解放されるのだ。
 しかしエックハルトは、この説教において、御子におけるオーソドックスな福音の要素を遙かに越え、ギリシア哲学を含む異教的とさえ思えるような知識にまで言及している。それは、一概に彼の真理把握の不完全さだけに起因するものではなく、むしろ、福音の真理に対して私たちが持つ偏見を揺さぶり、その除去を期待するものではないだろうか。というのは、キルケゴールが言ったように、日常的に福音的な説教が繰り返し語られることにより、その内容が私たちの感性にとってもまた知性にとっても、新鮮味のない空しいものとされてしまった感があるからである。そして、いつしか私たちは、その福音のストーリーを確認することが日課となり、そこに提起されているチャレンジに対して自ら決断をせずに済ませるようになってしまったのだと思う。
 しかし、エックハルトが言うように、神は、全神性をたずさえて魂の根底にいらっしゃるのである。それを最新の意味で、戦慄をもって受け止めるものの心に神は、ご自身の御子を再び産み賜うのである。その人をご自身の真の一人子とするために。

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