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2008/02/23

神の業

説教9:知性と意志とについて

 「神を知ることは、神を求めることに優る」とエックハルトは言う。というのは、彼の考えによれば、神はひとつの知性であり、「ただ自己自身だけを認識することによって生きるところのひとつの知性なのであり、その知性はなにものにもいまだかつて触れられたことのないところでひたすらそれ自身の内にとどまりつづけている」からである。そして、私たちが神の御心を行うことにより、神の栄光を現そうと意志するなら、まず神を知性的に知る必要があるという。
 しかし、エックハルトが語るこの「知性的」という言葉は、我々の既成概念を超えたものであり、そのような前提をもって彼は神を「ひとつの知性」と呼んでいるのである。つまり「知性的に知る」とは、知識以上のものを得ることであり、それはすでに、神とある種の関係に入ることをさえ含んでいるのである。そのころの神学校で教えられていた「有の定義としての10のカテゴリー」の最高位である「実体」から、最低位の「関係」までも、神にあっては相等しいものとして認識されるからである。そのように、「知性的に知る」という概念には、知識として知ることを越えて、その対象と関係を持ち、さらに甚だしくは、同化(合一)することまでが含まれ得るのであり、それは、人を知性と捉え、神をも知性と捉えるところのエックハルトの認識力においては、必然的なダイナミズムでもあるのである。
 そこで、エックハルトにおいては、キリストの福音を心に受け入れ、救われるということは、福音の内容を理解し、口でアーメンと唱えることだけを意味しない。それにはさらに、キリストとの間の友なる「関係」に加えて、父なる神との真の親子関係、すなわち、神の一人子と「成ること」が含まれて来るのである。
 私たちは、この世界において、キリストの香りを放つ存在にならねばならない。しかしそれは、自分の外に何かを探すことではなく、むしろ自分の内側にあるものを発掘することであり、したがって抽象的になることではなく、逆に具体的となることなのである。神は、すべてのものの内にいまし、とりわけ救われた者の心の神殿に住まいされるからである。エックハルトは、この説教の中で、これらのことを彼流の可憐な言葉で表現している。すなわち、「わたしたちが常にこの言のかたわらでひとつのたとえ言葉であるように」と。「たとえ言葉」それは、神の言葉の実例、すなわち受肉したもの、キリストを意味している。神の言葉という目に見えないものが、人の姿をとってこの世界に来られた。それは、私たちにおいても実現する。私たちの内に語られた神の言葉は、私たちの内にキリストの形を造ることにより、この世界に焦点を結ぶ。それは、私たちが行う百の奉仕に優るものである。
 弟子たちが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」 と。

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