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2008/02/21

信仰の生涯

説教8:死してある生き方について

 「光ある内に光の中を歩め」と主イエスは言われた。しかし、人が生きている限り、福音の光もまたその人に対して輝いているとすれば、この御言葉の意味は、生きている内に、キリストに従って歩め、すなわち十字架を負ってキリストに従えということになるだろう。しかし良く考えて見ると、「十字架を負う」ということは、「死してある生き方」を意味する。すなわち、「生きている内から、死んでいるように生きよ」ということであり、これはパウロが推奨した生き方でもある。それにしても、せっかく生まれて来たというのに、そして、神の子にされたのに、どうして死んだようにこの世を生きなければならないのだろうか。
 そのように思えるのは、私たちが想像するこの世のリッチな生き方のイメージと、上で推奨された生き方がマッチしていないことによるのだろう。それでは、どちらが間違っているのだろうか。もちろん、私たちの想像の方が間違っているのである。というのは、この世的な富は常に、様々な外的要因により、もろくも崩れ去る危険性の中にあるからである。そこでそれらに過度に依存しない生き方が求められるのであり、それが「死してある生き方」ということになる。
 エックハルトによれば、この「死してある生き方」は、決して自虐的な生き方でないばかりか、人がこの世の富という「死すべきもの」から自由になり、真の存在性(エックハルトの表現を使えば「有」)を取り戻すために不可欠である。聖書に、「見える物は、見えない物からできた」と言われている通り、この「見えない物」こそが「有」であり、私たちの目が、この「見えない物」に向けられ、それに基礎を置いて生きるとき、初めて私たち自身の生に真の存在性が与えられることになるからである。
 それでは、そのような人がいたとしたら、その人はどんな暮らし向きをしているのだろうか。もしかしたら、見た目では他の人と区別がつかないかもしれない。しかし、彼の生活には、確固たる必然性が与えられているところが他とは異なる。というのは、彼がそのような生活をしているとすれば、それは神の御心であると同時に、また彼の意志でもあるからである。
 しかし、それでは彼は単に、自己の内で勝手に納得しているだけなのではないか。それは、思い込みとどこが違うのか。たぶん神は、彼が正しいということをこの世界において証明することはなさらない。それは、それにより世を裁くためである。この世よりも神に従うことが正しいということは、それを実践した人と神だけが知っているのである。だから、長い歴史を通じて、クリスチャンは絶えることがないばかりか、むしろ繁栄してきたし、また神を信じない者も絶えることがなかったのである。そしてそのことは、神が存在することの一つの証拠ではあっても、神が存在しないことの証拠とは、決してなり得ないのである。

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