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2008/02/20

献身の動機

説教5:なぜという問いのない生き方について

 私たちは、なぜ主イエスに従うのだろうか。彼が私たちを罪から購って下さったことへの返礼だろうか。それとも、彼に従って天国へ入るための条件だろうか。また、この地上で良い行いを積むという意欲だろうか。しかし、それらは自分の中に設けた理由と言えるのではないだろうか。というのは、そのような献身の頼りないところは、それを自分で決めたところにあるからである。つまり、自分で決めたことは、また自分でやめられるからである。しかし、もし自分で決めたのでなかったとしたら、それは隷属のようでもあり、不自由ということにもなる。これらの中間はないのだろうか。しかし、それは想定しにくい。この世界に自他の区別がある限り、私が決めたのでなければ、誰かに決められたということになってしまうのである。私は、神に従うべきであるかもしれないが、そのことによって、もし不自由になるのなら、私が罪から解放された意義はどこにあるのだろうか。というのが人間の持つ矛盾であり、疑問でもあるのである。
 しかし、信仰的な人は、神のために自由を捨てること、すなわちキリストのために自分を捨て、十字架を負うことこそが真の自由であると言うに違いない。いかにしてそのことが可能なのか。それは、彼がすでに自分を脱ぎ捨てているか、少なくとも脱ぎ捨て始めていることによる。エックハルトによると、彼が自分を離れると神もまた天の御座を離れられる。そして、この世界において両者の合一ということが起こる。ちょうどキリストにおいて、神なる父と人なるイエスがそのようであったように。キリストは、「わたしの物は父のもの、父の物はわたしの物」と言われた。また、子は、自分からは何事もすることができない」とも言われた。さらに、「父は子に何事でも知らせられる」とも言われた。そのように父と子は一体なのである。父は子によって、栄光を受けられる。そして、父は子に栄光をお与えになる。そのように両者の栄光もまた一つなのである。
 そこで、キリストのために命を捨てる人を、キリストは終わりの日に甦らせるのであり、今の世で彼に従うものは、この世で捨てたものの100倍を受けるのである。これを文字通り自分のものとしている者は、キリストと一体化している者である。彼がそのことをどの程度実感しているかは別として、エックハルトがこの説教で主張しているところの、一見異教的な現象が、実は確かに起こっているのだと私は思う。そのことが、信仰者をして自由にし、献身の熱意に燃やし、希望に満たし、忍耐を増し、天国の喜びでその心を満たすのである。

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