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2008/02/19

主イエスを受け入れる

説教2:魂の内にあるひとつの力について

 私たちは、主イエスをどのように心に受け入れたら良いだろうか。私たちは、自分の心のどの部分に主イエスをお迎えするべきだろうか。入り口に近い小さな応接間だろうか。それとも、一番奥の大広間だろうか。はてまた自分愛用の寝室だろうか。主イエスにいつまでいていただくべきだろうか。仕事や人生に関する相談の間だけだろうか。それとも、主イエスの好まれる時間に、自由に出入りしていただく方が良いのだろうか。
 いずれにしても、主イエスが私たちの対応をどう思われるかが肝心なことだろう。主イエスは、どう思われるだろうか。しかし、私たちが主イエスを受け入れるとき、実は主イエスは、ご自身の場所に来られるのである。そこがたとえゴミだらけであっても、また、家具などない殺風景な部屋であってもである。通常、私たちは、日常生活の問題点や偏見というゴミのたくさん散らかった部屋に主イエスを案内することになるのだろう。エックハルトはこの説教で、私たちは主イエスに、どのような部屋を用意すべきかについて語っている。
 部屋は、それを用意する人の人柄を表すものだ。人は、どんなに努力しても、その人並みの部屋を用意できるだけである。エックハルトによれば、主イエスがもっとも快く受け入れて下さるのは、処女のように偏見のない対応である。しかし、来て下さった主イエスの助けにより、今度は神のために働こうと思うなら、その人は、いつまでも無垢にのみ留まっていては、何も生み出すことはできない。そのためには、自分を犠牲にしたマルタのような積極性が必要なのである。エックハルトによれば、このような、人の処女性は、その人が実り多い働きをするのに決して障害とはならない。そればかりか、神のために働くためには、処女のように偏見なく主イエスに従うことが不可欠なのである。
 それではそのような無垢な人は、主イエスのためにどのような部屋を用意するだろうか。エックハルトによれば、それは用意するというより、すでに用意されていた部屋である。実は、私たちの心の中に、すでにこの部屋があったのである。しかし私たちは、いつしかその部屋の存在を忘れてしまい、鍵もどこかへ亡くしてしまったらしい。それでは、どうしたらこの部屋を取り戻せるのか。それには私たちは、まず自分が作りだしてきた、粗末な部屋をあきらめて、エックハルトが魂の城と呼ぶ、神が主イエスとあなたのために用意された、完璧な部屋に思いを馳せる必要がある。
 あなたが用意した粗末な部屋に、かつて主イエスは、あなたを救うために救い主として入って来られた。しかし、この魂の城には、彼はもはや、救い主として入られるのではない。王の王、主の主として入られるのだ。そして、永遠にそこに留まられるのである。

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