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2008/02/18

真の礼拝

説教1:魂という神殿について

 神はかつて、信仰の父アブラハムを起こし、彼にモーセによる出エジプトのご計画を告げられた(創世記15:14)。それは、ご自身の民を聖なる民族とし、まことの礼拝を捧げさせるためであった。その礼拝には、契約の箱や幕屋を始め、さまざまな規定があったが、それらにより神が礼拝の場所に臨在され、罪の購いの儀式が執り行われていた。しかしそれらは実は、来るべきまことの礼拝を指し示すものであり、雛形であったのだ。それは、主イエスがサマリヤの女に、「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と言われた通りである。この来るべきまことの礼拝とは、主イエスを心に宿すことであり、その礼拝が捧げられる場所は、まさに「この山でもエルサレムでもない所」すなわち私たちの日常生活の直中、私たちの魂である。
 神は、天地万物を創造される前に、主イエスを生み出された(箴言8:22)すなわちイエスは、神の一なる言葉である。神は、この一なる言葉により、万物を創造された。そこで自分の起源と目的について知る為には、この一なる言葉を理解する必要がある。しかし、この一なる言葉は、我々の理解を超えている。「わたしの思いは、あなた方の思いよりも高い」と言われる通りである。ところでエックハルトは、この説教の中で、このまことの礼拝について教えている。
 聖なる福音書の中で、主イエスは、宮の中で売り買いしている商人たちを追い出された。この商人とは、私たちの人間的な心の象徴である。人間的な心、それは取引しようとする心であり、時間と戦略に捕らわれている。かつて、悪魔はその巧妙な戦略により、まんまとアダムから祝福をだまし取った。なぜエバは騙されたのか。彼女の心が時間と戦略に捕らわれていたからである。それは、「食べるに好ましく、賢くなるにはふさわしい」と書いてある通りである。そして、時間の中では、エバはアダムのパートナーであったから、その規定に従い、アダムも罪に陥ってしまったのである。
 そこで人が、彼の魂の神殿で神を礼拝しようとするなら、彼はまず、このような時間や戦略から自由にならねばならない。どのようにそれが可能だろうか。それは、あなたが一人の王を得ることである。主イエスという王である。この方は、王の王、万軍の主である。その方の主権があなたの心に啓示されるとき、あなたは、彼の一人の勇士にして忠実な兵卒となる。この、一人の王に従うということ自体は、べつに新しいことではなく、旧約聖書に書かれている、もっとも美しいことである。しかし、その王が主イエスであるとき、それは、永遠の昔からあなたのために創造された、永遠に新しいかけがえのないものとなる。そのときあなたの肉は、主イエスに従おうとするあなたの意思に完全に服従する。主イエスがあなたの心に語られるとき、あなたの中のすべての戦略、時間、すべての声は沈黙し、ただ主イエスだけが語られることになる。主イエスは、何を語られるのか、彼はご自身が誰であるかを語る。それ以外にあなたが聞くことはない。主イエスは、あなたにとって、すべてのすべてであり、彼の中に万物の起源、万物の目的、すなわちあなたのすべてがあるのである。

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