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2008/02/13

訣別と遺言(導入部)

ヨハネの福音書(第13章31~35節)

 弟子たちとの別離を前にして、イエスは彼らに、古くて新しい愛の戒めを授けられた。それは、正に遺言のように、後に残る者たちに対して影響力を持つものである。
 まず第一にそれは、過去と未来をつなぐものである。ブルトマンによれば、イエスがこの地上に生きていたということは、単なる歴史上の出来事なのではない。それは、実に終末論的な出来事なのであり、弟子たちにとって単なる過去の体験などではなく、それは、彼らの未来を約束する事実なのである。そのことをブルトマンは、彼独特のたぐいまれな美しさで詠い上げる、「<もつこと>は自分の自由になる所有だと考える妄想に対して、使命を果たすことを核心とする<もつこと>が示される。もうない過去へと向けられた絶望的な視線が、義務づけられながら到来する未来へと向け変えられる。過去への固執にすぎない偽物の未来が、信仰を要求する本物の未来へと変えられる」。
 第二にそれは、それまでに無かった、まったく新しいものである。しかしそれは、ブルトマンによれば、イエスによって世に告示された、新たに発見された原理または文化理想としてではない。この愛の命令は、精神史におけるそれの比較的な新しさのゆえに新しいのではない。それは実に、終末論的な教会の法則であり、そのような教会は、世から分離されたものであるゆえに新しいのである。
 それは、どのようにして、イエスの生前という過去と教会時代という未来を結ぶのか。ブルトマンは語る、「過去が私の過去であるかぎり、その過去から自由になり、過去において神の行為がなされた限り、その過去に結ばれる、という仕方においてである。イエスとの出会いが彼の奉仕として体験され、この奉仕が信仰者を自由にした。それが過去の意味であったとすれば、未来の意味は、未来においてその自由を生き抜くことでしかありえない」と。「すなわち、未来はそれの意味を過去から与えられる。また過去は未来においてそれの意味に到達する。だがそうであれば、啓示者の別離にもかかわらず、彼との結合は未来において存続する。彼の行為が彼らの行為に現臨しているのである」。
 ブルトマンによれば、そのようにして啓示者イエスは、ご自身の御体なる教会に臨在されるのであり、この考えは、実存主義哲学などではなく、イエスの見える姿や、超自然的な現象の現れへの期待を厳格に退けながらも、昇天後も教会を導き続ける、生ける実存としてのイエスを啓示するものであると思う。
 ああしかし再び、このブルトマンの信仰力学は、果たして期待通りはたらくものだろうか。教会の存続が、彼らが終末論的、脱世界的な存在としての性格を保ち続けることに懸かっているとすれば、それは、大き過ぎる重荷とは言えないだろうか。そこで私は、ここにどうしても、信仰者とイエスの不断の交わりが不可欠に思えるのである。それは、生前のイエスの御業の想起ではなく、復活のイエスとその生ける御体なる教会の交わりである。それにより、信仰から迷い出た教会は、各時代の中で、歴史を支配されるイエスにより、正当な道へと絶えず連れ戻されてきたのである。
 これに対してブルトマンは、何と応えるであろうか。たぶん、こう言うだろう。信徒が生前のイエスを想起するとき、すなわちイエスについての説教が語られるときに、この出会いが起こる。そこに絶えず再現される終末論的な決断の機会が教会存続への契機であると。

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