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2008/02/09

訣別の祈り(教会のための執り成しの祈り)

ヨハネの福音書(第17章6~26節)

 イエスは、訣別の祈りの中で、後に残る者たちすなわち教会のために取り成しの祈りをされた。教会とはなんだろう。ブルトマンの言葉によると、それは「イエスに対する信仰の決断によって神の啓示を自分のものにする共同体」なのであり、信仰者の意思に重きが置かれているところから、あらゆる歴史的な存在の不確かさの中にある。彼らは、「世から取り出され、その起源を神にもち、受難、すなわち世による放棄を前にして啓示者として認識されるイエスの言葉によって基礎付けられている」のであり、従って世にとって躓きであるという意味でしか自分を世に示すことができない。彼らは、世にある共同体でありながら、脱世界的な存在であることを貫徹しなければならない状況に置かれている。しかしその決断は、終末論的な出来事にかかわる決断であって、この世的な業績や価値にかかわるものではなく、イエスにおいて遂行される終末論的な出来事に固執するかぎりにおいて、自分の根拠を永遠の中にもっているのであるという。これがブルトマンが提示する、イエスの御体たる教会の状況なのであり、それは今日の弱く愚かなキリスト教会の姿に非常によく合致するように思える。
 すなわち、今日の教会が世に語るメッセージがいかにも独善的であり、未信者にとっては、何の現実味も説得力もなく、世の人からは、変人の代表格のように見られているように思えるのだが、そして、一般的なクリスチャンといえば、社会の荒波にもまれてきりきり舞いさせられ、教会生活もおぼつかなく、疲れ果て、信仰的に去勢されてしまっているか、はてまた、状況に対して何の根拠もない信仰談義により、人々を説得できるか改心させられるというような妄想に支配されている狂信者か、または暖かみも配慮もない偏屈人間のような輩に見られてしまっている状況があるように思えるのだが、それ自体が、ブルトマンによれば、神がイエスにおいて意図されたことであると言っているかのようである。
 そのような教会のためにイエスは、「聖なる父よ、彼らを守って下さい、あなたが私に与えて下さっている御名によって、私たちと同様に、彼らも一つであるように」と取り成しの祈りを捧げられたのであった。「彼らも一つであるように」。それは、教会がその清さを保つこと、教会としての意味と本質を世からではなく、彼岸から受けかつ守るために必須なことである。しかもこの一致は、時代を超えて保たれなければならない。それは、可能だろうか。ブルトマンによれば、イエスの同時代の人々は、後代の人々よりこの一致に関して優ってはいなかった。確かにこの一致は、教会の歴史の中で、忘れられたり否定されたりする危険にさらされている。しかし教会が、終末論的な啓示の出来事以外に根拠を持つことなく、終末論的、脱世界的な存在としての性格を保って存続しているなら、教会はまたこの一致に関する知識をも与えられているのである。
 教会の目的は何だろうか。それは、外に向かっては伝道、内に向かっては信仰の完成である。「私はあなたの名を彼らに知らせました。これからも知らせるつもりです。あなたが私を愛されたその愛が、彼らのうちにあるようになるために」。ブルトマンによれば、信仰の完成とは、「啓示の不断の現臨、すなわち、世を再び被造物にする啓示によって信仰的実存が規定されるような認識」のことである。つまり、イエスが、「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」と祈られたように、私たちは、イエスを信じる信仰により、この世から連れ出され、イエスの御体なる教会すなわち終末論的、脱世界的な存在とされたのであるが、いまやイエスの言葉によって再び世に遣わされることにより、世に回帰しなければならない。どのように回帰するのであろうか、それは、神の啓示の不断の現臨を持ちながら、すなわち清い神の子とされながら、この罪の世に一人取り残され、世の憎悪を燃え上がらせるような躓きとなりながら、世に対して、信仰の可能性をつねに開き続けなければならないのである。それは、まさに生前の主イエスの働きの継続そのものである。
 ブルトマンの提示する非神話化は、聖書からのグノーシス神話的な要素の排除と共に、今日を生きるクリスチャン生活からも神話的要素を排除するための試みである。しかしそれは、この世との信仰的妥協やローカライゼーションには、真っ向から対立する。それは、信仰者の完成を求める主イエスの祈りの成就を真剣に追及することなのである。『この祈願の意味は、彼からの彼らの分離は一時的なものであって、彼らの世での実存が終わった後、彼と一つになるように、というものでしかあり得ない』。そして、この道を進むことにより、主イエスの取り成しの祈りが、歴史の中で成就することを信じるのである。『むしろ、彼らの生は時間的・歴史的な実存の限界内で終わりはしないゆえに、そうできるのである』。

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