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2008/02/05

クリスチャンになってもなぜ苦難がやってくるのか?

 「クリスチャンになったら、苦難がなくなる」あるいは「少なくなる」と漠然と考える人がいるかもしれない。それもあながち間違えでははないだろう。というのは、私たちは、キリストを信じることにより、この世の呪いから解放されるのだから。この呪いがある限り、私たちの生活は、苦々しいままであり、生きて行く意味も良く分からない。しかし、キリストを信じて心に受け入れると、聖霊が私たちの心に新しい知識を授けて下さる。その人は、もはやこの世の空しい喜びには、捕らわれないようになる。また、存在の根底からやって来る底知れない不安や恐怖(それらは、死に定められた人間存在に共通する)からも解放される。そこで、人はクリスチャンになると、これらの大いなる苦難からは解放されるのである。
 しかし同時に彼は、新たな苦難をその身に負うようになる。それは、戦いという苦難である。これは霊の戦いであり、約束の地としての天国への旅でもある。世の人は、この戦いを理解せず、そのようなものがあることさえ知らない。しかし、主イエスが言われたように、天国は力ずくで襲われており、激しく攻める者がそれを奪いとっているのだ。この戦いを知らない者は、天国がどういうものか知らない。神がかつてご自身に背いて悪魔と化したルシファーを滅ぼさずにおかれたのは、私たちに戦いを教えるためでなくて何のためだろう。私たちが天国を受ける方法は、戦いしかないのである。なぜなら、勝利を得る者こそが天国に入る者なのであり、パウロも「私たちが神の国に入るためには、たくさんの苦難を経なければならない」と語っている。この段階に至った人にとって、旧約聖書は従来と全く意味の違うものとなる。というのは、旧約聖書こそ、この霊の戦いと約束の地としての天国争奪に関する戦いを記したものなのだから。
 それゆえ、人がクリスチャンになるやいなや、戦いもまた始まるのであり、彼は新たな苦難の中に身を置くことになる。ああしかし、彼はその苦難にすでに勝利している。万軍の主イエス・キリストが私たちと共におられるからである。そればかりか、私たちは苦難の中で安らぎ、神を賛美することができる。かつて、ヨシャパテが率いるイスラエル軍が、「主をほめたたえよ、その恵みはとこしえまで」と賛美すると、敵は打ち砕かれたのであった。ダビデも迫り来る敵との戦いの中で神を賛美する詩を詠んだ。彼の一生は、戦いの生涯であった。そして、神はダビデを「我がしもべ」と呼び、彼のゆえにイスラエルをとこしえに祝福されるのである。

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