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2008/02/02

訣別の祈り:導入

ヨハネの福音書(第13章1節)

 ブルトマンは、「錯乱説」という立場に立って聖書を分析する。これは、かつて一冊に綴じてあったヨハネ福音書原典の紐が切れて、各頁が一度ばらばらになってしまい、それが再び綴じられたときに、順序が入れ替わってしまった頁があるという説である。これによれば、この13章と17章の間の断絶は、その結果の最たるものの一つである。
 というのは、イエスの訣別の祈り自体は、ブルトマンによれば17章から始まるのだが、それは物語的には、13章における最後の晩餐とユダの裏切りの後に続くものであるが、その間に突拍子もなく、イエスの長い講話が挿入されているというのだ。特に、14章の最後では、イエスが「さあ、立て。ここから出かけよう」と言った後も、15、16章とイエスは長々と語り続けているのは、いかにも不自然な印象を受ける。
 ブルトマンは、13章1節を、これから始まろうとしているイエスの訣別の祈りの内容に関わる本質的な事柄と見る。すなわち「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」のである。イエスの働きは、最初、世との闘いとして、また分離として描かれ、さらに本質的にはそれが裁きをもたらすものであることが明示されていた。しかし、イエス御自身の本質であるところの愛については、長い講話の中で比喩的に認識され得るにとどまっていた。しかし、この13章に至り、それまでのイエスの働き全体に、初めてあふれるばかりの啓示の光が注がれる。すなわち彼の働きは、実は「彼の者たちを愛すること」に他ならなかったのだとブルトマンは言う。この真の愛が、今祈りと訣別の講話とにおいて、十分に展開され、明らかにされようとしているのである。いままで世になかった、天からの光が今ここにおいて、ヨハネ福音書の13章において、燦然と輝き出でるのをブルトマンは感動を持って詠い上げるのである。
 ここで私は、ブルトマンの聖書講解を通して輝いているのは、やはり眩いばかりの啓示の光であることを認めざるを得ない。ブルトマンは、疑うべくもなく、イエスという人に現された普遍的な愛の光について感動をもって語っているのである。これはもう、実存主義を超えている。ブルトマンは、実存主義以上のものである。彼の語るイエスは、実存主義者ではない。それは疑いも無く、天から降ってきた神の一人子、主イエス・キリストなのである。なぜなら、彼もまたこう語ってやまないからである。すなわち、「イエスは自分の出所と行先を知っている完全な知者である。彼にとってこの世への到来とそこからの離去は、謎に包まれた不可解な運命ではない。彼は自分の退去の時を知り、またその時が今来ていることを知っている。だから、今起こりつつあることは、偶然的または悲劇的な出来事ではないし、その理由と意味を人間の計画や決意にもってはいない。イエスは、たとえば英雄のように、死ぬための正しい時を選ばない。彼の運命において啓示の出来事が実現されるのである」と。

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