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2008/02/01

裏切りの預言

ヨハネの福音書(第13章後半)

 「教会内にふさわしくない者がいるという可能性を考えないで、教会について語ることはできない」とブルトマンは言う。そして、この「ふさわしくない者」とは、この場の状況においては、「裏切り者」たるユダのことを指している。そしてブルトマンによれば、このような初代弟子集団の構造に福音書記者ヨハネが着目し、この集団形成の初期段階においてすでに強調の内にそれを指摘している(ヨハネ6:71)のである。それにしても、イエスの弟子たちという聖なる集団の中に、なぜ裏切り者が存在するのだろうか。
 イエスはここで預言者として、心を騒がせながら証言している、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と。弟子たちは、その言葉に動揺し、ペテロはイエスの愛弟子ヨハネに目配せして、誰のことを指して言われたのか密かに尋ねさせようとする。しかしイエスは、あからさまに、「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われ、ユダにパンを与えて、「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言われた。弟子たちのうち、この主イエスの言葉を理解した者は、ペテロと愛弟子ヨハネを含め、誰もいなかった。
 これら一連の不可解なできごとには、ブルトマン自身もほとんど答えようとしていない。むしろ彼の関心は、イエスの訣別というできごとにおけるユダの役割にあるようだ。ユダは、イエスの地上での働きを終わらせる大役を演じている。しかしそれは、「心理学的に動機づけられた人間的な行為の領域を超え出ている。ここで行為しているのは人間ではなく、神と啓示者の敵対者サタン自身である」とブルトマンは、ここで実に実存主義者らしからぬことを言っている。彼の培ってきたすべての神学的方法論も分析手法も、今この波乱の場面を前にして、ただ状況を見守る以外に成すすべを知らないかのようである。ブルトマンによれば、ユダの行為は、二重に虚無的な行為である。彼は、裏切り者でありながら、自らではなく、サタンという第三者に動かされて行為する。そしてサタン自身もまた、行為に際してイエスの許しを得ているのである。それは正に、ユダにとって非実存主義的な行為であり、「裏切り」という悲惨かつ卑劣な行為は、このような非実存主義的行為から誘発されてきたとブルトマンは言いたいのだろう。
 しかしブルトマンは、それ以上に進むことはできない。ユダの裏切りの行為が間違っていたことは明白であっても、そのとき彼はどうすればよかったのかは、ブルトマンのような実存主義者にとっては、ただユダのみぞ知ることなのである。確かに私たちは、実存主義者としてユダの行為を非難することはできる。しかし、実際は彼がどのようにすべきかとか、なぜそのように行動してしまったのかとか、それは神のご計画であったのかとか、その類のことには、実存主義はかかわりを持たないのである。実存主義は、今という一点に集中する。この一点を全力で生きることに集中するのである。その意味で、歴史の分析や考察は、この今をどう生きるかを決めるためにあると言える。しかし、どう決めたら良いのかということまで踏み出したら、それはもう実存主義ではなくなる。それは、予定論であり、正統主義であり、福音主義であり、その他諸々のものとなってしまうだろうから。

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