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2008/01/30

略奪者の運命

イザヤ書 第17章

 これは、やがて起こること、しかも近い将来に起こることについての託宣である。エフライムすなわちイスラエル王国は、ダマスコすなわちアラムと共にその繁栄していたころの面影を失い、瓦礫の山となる。その日には、イスラエル民族は、異邦人に踏みにじられ、その力は衰え果てる。それは、彼らが彼らの神を捨てて偶像の神につき従ったからである。神の裁きは、常に公正であり、神はご自身の民の罪をさえ大目に見ることはされないのだ。そのように天地の作り主なる神が正しい裁きをされることが世界の歴史を通じて明らかになる。そのようにして、偶像の神とそれらを信じる民は、真の神の前に永くは存続できないことが明らかとなる。そのようにして、永い年月を経た日に、すべての人々は彼らの偶像を離れ、造り主なる神のみを礼拝するようになるとイザヤは預言するのである。
 しかし神ご自身は、不信仰に対する一貫した態度を貫かれ、彼ら偶像の民を糾弾されてやまない。ご自身の聖なる民イスラエルに荒廃をもたらした民に裁きをもって報いられる。神は、ヤコブすなわちイスラエルに、私は決してあなたを捨てないと約束されたからである。
 それゆえ神は、イスラエルを略奪しようとする民に報復される。ご自身の聖なる民イスラエルによって報復されるのである。ちょうどエステル記に記されているように、イスラエルを強奪しようとする者は、そのように突然に破滅が襲い、夜の明ける前に彼らは消え失せる。これが常に彼らの受ける分、彼らの運命なのである。

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軍隊組織

歴代誌上 第27章

 ダビデが歳を重ね、その個人的な戦力が衰えるに従って、国に強靱な軍隊組織が必要となってきた。ダビデが若くて、強かったときは、そのようなものは必要なかった。ダビデ自身が軍の先頭に立って出入りし、神はダビデに行くところどこにおいても彼に勝利を与えられたからである。
 しかし、彼が歳を重ね、軍の指揮を指令官ヨアブにゆずるにおよんで、軍の大がかりな組織化が必要となったのであった。それは、各月毎の当番制であり、12の組に分かれ、各組にはそれぞれ2万4千人がいた。それらの組はまた、家系の長、千人隊と百人隊の長、そして種々の役人たちからなっていた。
 この重厚な軍隊組織に比べて、各部族の統率や王室財産の管理、種々の事務や総務等は、非常にシンプルな構成であった。彼は、それらを顧問や書記官に任せ、自分自身はそれらにほとんど関わらなかったようだ。そのようにダビデの生涯は、戦いの生涯であり、戦いの中で神を礼拝し、賛美し、歌を詠み、祈り、神の裁きを遂行したのである。

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キリストは、本当に復活したのか?

 キリストは、十字架に死に、葬られた後、3日目に復活したと信じられている。しかし私たちは今、その証拠を手にしていない。キリストは、甦った後に天に上って行ってしまわれたからである。つまり、ここで問題にしているのは、私たちは、何をもってキリストの復活を信じているのかということである。
 たぶん多くのクリスチャンは、信仰はそこ、すなわちキリストの十字架と復活から始まると言うだろう。そして、キリストの復活という前提が崩れれば、信仰のすべてが崩れると言うかもしれない。確かにそうだと思う。しかし、ここに一つの疑問が残る。人は、そんなに一つのことをしっかりと心に持ち、信じ続けて行けるものだろうかということである。それは、自分の努力では不可能ではないだろうか。つまり、誤解を恐れずに言うのだが、復活信仰は、私たちがそれを信じるという行為自体に懸かっているのではない。それを私たちに信じさせている存在がいるはずなのである。もちろん、その結果私たちは、何の誤りも無く聖書を信じられるというのではないだろう。それぞれに自分の解釈で信じているところはあるに違いない。しかし、いずれにしても全体として私たちの信仰は、何千年もの間保たれてきたのである。その原因には、クリスチャン同士の交わりとか奇跡とか教会生活とか祈りや聖書を読む習慣とかもあるだろうが、それらを通じて、私たちを信仰から信仰へ進ませて、日々新たにして行くように働く、ある生きた実存が存在するとしか思えないのである。私は、この実存が復活のキリストだと思う。復活のキリストが現在も確かに私たちと共におられて、私たちの信仰を保ち、私たちに絶えずご自身のことを思い出させられるのである。それゆえ私たちは、キリストは復活して、今生きていらっしゃると告白するのである。

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