« 2008年1月23日 | トップページ | 2008年1月26日 »

2008/01/25

見えるものは見えないものから

解析概論(1.11)連続関数の性質

 連続な関数の性質として、ここに挙げられているものには、まず多少有名な中間値の定理がある。これは、連続な関数すなわち連続な写像によれば、連続なものは連続なものに移されるということであり、曲線の途中点は、この写像により移された曲線のやはり途中点に移されることを言うのである。しかし、元の曲線における最大値と最小値は、移される先の曲線においては、必ずしも最大値、最小値に対応していないかもしれない。というのは、写像により曲線が回転や変形してしまうかもしれないから。しかし、それでも連続ということは言えるので、移った先の曲線には、最大点と最小点が存在することだけは言えるのである。それから最後に、数列の場合と同様に、移った先の曲線上のどんなに短い区間にも元の曲線の対応する区間が見つけられるということであり、しかも長さにおいては、移された先の曲線上において縮められたところや引き延ばされた部分があるであろうが、例えばどこかを1cm切り取ると、どこを切るかによって、それに対応する元の曲線上の長さは様々に変わるであろうが、それでもこれ以上には長くはないと言える限界があるのであり、この性質を連続の一様性という。これらが連続関数の性質である。
 聖書には、見えるものは見えないものから出来たと書かれている。この見えないものとは、天にある雛形のことである。そして、私たちはまだその雛形を見たことがない。それが私たちの住むこの世界の物事とどの程度共通する部分があるものなのか、私たちがこの地上を去って天の住まいに行くとき、そこで安らぎを見いだせるものなのだろうか。しかし、このことに関しては、私たちは希望を持つことができる。それは天の雛形は、神の御旨の連続関数によりこの世界に焦点を結んでいるのであり、この世界は天の雛形に良く似ているはずだからである。イエス様も、私の父の家には住まいがたくさんあると言われた。それは、私たちを当惑させるような住まいではなく、安らぎを与える住まいなのである。私たちが神を讃美するとき、神はご栄光を受けられるし、私たちがこの世界で神に従って福音を宣べ伝えたことにより誰かが主イエスを信じたなら、天に大きな喜びが湧き起こる。私たちが毎週、教会で神を礼拝するとき、天においても無数の聖徒たちが時を同じくして、神を礼拝をしているのである。私たちが住むこの世界と天は、かくつながっているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

御旨の連続性

解析概論(1.10)連続関数

 連続関数とは、独立変数xが連続的に変化するとき、それに対応して従属変数y=f(x)もまた連続的に、すなわち値の変化に断絶がなく、なめらかに変化するような関数のことである。
 さて、関数はこの世界の諸現象を記述するものである。それは、原因に対して結果を対応させるものであり、この世界のすべての物は他の物を原因とする結果なのである。しからばそのとき、関数が連続であるとはどういうことか。それは、結果としての現象の観測からその原因を推定、検証し、そのようなことにより、次なる良い結果を得るための対策を取ることができる可能性が確保されていることである。もちろん関数自体が確定できれば、たとえそれが不連続であろうとも、結果は予測可能である。しかし式が与えられていなくとも連続性が保証されていれば、結果は突拍子のないものとはならないのである。
 しかし問題は、この世界の現象には、時として突然不連続な結果が起こることである。いままでの人生の順調が今後もしばらくは続くと思っていた矢先に、それを覆すようなことが起こってくる。運命の定式を知ることを許されていない私たちにとって、そのような危機への遭遇は、時には死活問題ともなり得るのである。そして、現代を生きる私たちがそれらに対処し得る完全な方法は存在しないかのように思われる。このような現実は、私たちの人格にダメージを与え、その存在意義、すなわち人生の目的を見失わせるに十分かもしれない。
 しかし、ここに一つの完全な連続関数が存在する。それは、神の御心を私たちの人生に投影するものである。この関数の作り主は、決して私たちを裏切ることがなく、私たちを落胆させることもなく、気まぐれでもない。私たちは、この方に対して確信を持つことができる。私たちの人生にこの方のご計画が実現し、神の栄光が表されるのを私たちは期待しつつ待つことができるのであり、その実現に私たち自身も参与できるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

門衛

歴代誌上 第26章

 主の神殿を常時監視し、守るためにレビ属の中から門衛が任命された。彼らの中には、アサフの子らの一人、コレの子メシェレムヤの子ら十二人やかつて神の箱を自分の家庭に預かったことがあるオベド・エドムの子ら六十二人がいた。彼らはみな、この務めにふさわしい勇士たちであった。神は、ご自身の聖なる神殿を守らせるために軍隊をもちいることはなされなかった。返って神は、聖職者としてのレビ人にその務めを託されたのであった。
 それでは、万軍の主ご自身は、神殿を守ることをされないのだろうか。神ご自身は、おそらくそのようなことはされない。その理由は、この務めの本当の目的は、実は神殿を守るということではなく、彼らが自分で神殿を守るという行為をすることにあったのだ。そして、この神殿を守るという行為こそ神への献身を表す尊い行為であり、今日における信仰の戦いであり、それは実に、絶えざる献身、究極的な礼拝を意味しているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年1月23日 | トップページ | 2008年1月26日 »