見えるものは見えないものから
解析概論(1.11)連続関数の性質
連続な関数の性質として、ここに挙げられているものには、まず多少有名な中間値の定理がある。これは、連続な関数すなわち連続な写像によれば、連続なものは連続なものに移されるということであり、曲線の途中点は、この写像により移された曲線のやはり途中点に移されることを言うのである。しかし、元の曲線における最大値と最小値は、移される先の曲線においては、必ずしも最大値、最小値に対応していないかもしれない。というのは、写像により曲線が回転や変形してしまうかもしれないから。しかし、それでも連続ということは言えるので、移った先の曲線には、最大点と最小点が存在することだけは言えるのである。それから最後に、数列の場合と同様に、移った先の曲線上のどんなに短い区間にも元の曲線の対応する区間が見つけられるということであり、しかも長さにおいては、移された先の曲線上において縮められたところや引き延ばされた部分があるであろうが、例えばどこかを1cm切り取ると、どこを切るかによって、それに対応する元の曲線上の長さは様々に変わるであろうが、それでもこれ以上には長くはないと言える限界があるのであり、この性質を連続の一様性という。これらが連続関数の性質である。
聖書には、見えるものは見えないものから出来たと書かれている。この見えないものとは、天にある雛形のことである。そして、私たちはまだその雛形を見たことがない。それが私たちの住むこの世界の物事とどの程度共通する部分があるものなのか、私たちがこの地上を去って天の住まいに行くとき、そこで安らぎを見いだせるものなのだろうか。しかし、このことに関しては、私たちは希望を持つことができる。それは天の雛形は、神の御旨の連続関数によりこの世界に焦点を結んでいるのであり、この世界は天の雛形に良く似ているはずだからである。イエス様も、私の父の家には住まいがたくさんあると言われた。それは、私たちを当惑させるような住まいではなく、安らぎを与える住まいなのである。私たちが神を讃美するとき、神はご栄光を受けられるし、私たちがこの世界で神に従って福音を宣べ伝えたことにより誰かが主イエスを信じたなら、天に大きな喜びが湧き起こる。私たちが毎週、教会で神を礼拝するとき、天においても無数の聖徒たちが時を同じくして、神を礼拝をしているのである。私たちが住むこの世界と天は、かくつながっているのである。
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