« 2008年1月17日 | トップページ | 2008年1月21日 »

2008/01/18

集積点

解析概論(1.7)

 集積点とは、その周りに、ある集合の点が無数に群れをなしているような点のことであり、有界な無限集合には、そのような集積点が必ず存在するというのがWeierstrassの定理である。そのような意味で、イエス・キリストは教会の集積点である。それと共に、彼はまた人類の集積点でもある。しかし、教会が主イエスの御体であるという意味で、ノンクリスチャンはキリストに属しておらず、キリストもノンクリスチャンに属してはおられない。しかし上の集積点の定義によると、それでもキリストは、ノンクリスチャンの集積点なのである。つまり、定義上集積点自体は、その周りに群れている点の集合に必ずしも属していなくて良いのであり、属している場合には、その集合を閉集合と呼ぶのである。
 そしてもう一つ、有名なHeine-Borelの被覆定理というものがある。それは、有界な集合は、必ず有限個の円で覆うことができるというものである。もちろん有界な集合であるから、一つの円ですっぽりと覆うことはできる。しかし、ここで問題にしているのは、対象の集合が恐ろしく複雑なもので、それを覆うために無限個の円が想定できそうな場合である。しかしその場合でも、この定理によれば、それら無限個の円のうちから有限個を選んで集合全体を覆うことができるのである。
 この地球という有限な世界の上で、歴史を通じて無数の人が生活してきた。そして、それらの人生一つ一つが十分な重さをもっている。それらを覆う、すなわち幸福にするには、無数の円すなわち人生設計が必要に思えるかも知れない。事実そのように人々は、自分だけのかけがえのない人生を追い求めている。しかし、人が幸福になるためには、実は多くのものは必要ではないのだ。神に創造されたあなた自身がすでにかけがえのない存在なのである。そして神が求めておられるのは、そのようなあなたの野心的な人生ではなく、実にあなた自身なのである。だから、あなたは人生に多くを求める必要はない。あなた自身を神に捧げることにより、あなたの人生を神のすばらしい恵みが覆うようになる。それは、驚くべきことに、あなたの掌に乗るほどコンパクトなものである。あなたにだけ、特別にその名前をお教えしよう。その名前は、「聖書」である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

収束の条件Cauchyの判定法

解析概論(1.6)

 解析学では、現象を分析するときに数列を用いる。前述のように数列は、世代を表すから、この世界を世代すなわち歴史の結果と見ていることになる。そのようにこの世界の事物や現象は、広大な歴史が織りなす産物なのであり、それを説明するには、史観的なアプローチが求められるのである。
 ここで説明されているCauchyの定理は、前述の「有界な単調数列が収束し、極限値を持つ」という定理の前提条件をさらに緩め、収束するためのぎりぎりの条件を提示するものである。それは、「有界」という、「自己とこの世界の関係」による定義ではなく、むしろ「自己自身のみによる判定」を可能とするものである。すなわち、今日の自己と明日の自己、今週の自分と来週の自分、あるいは今年の私と来年の私の間の違いつまり差が単調に小さくなって行くなら、その数列は収束し、極限値を持つのである。
 しかし、この世界と自己との関係を見ていないことから、それは、必ずしも一点に収束するとは限らない。一生、つまりこの場合は永遠にある幅の範囲をを揺れ動き続けるということもあり得るのである。その場合、その揺れ動く上限を数列の上極限、下限を下極限と呼ぶ。そして、これら二つの極限が一致するときがその数列の収束するときであるとするのであり、これは前のものよりさらに一般的で美しい定義である。
 人の人生がこの世界と接点を持たなくなったとき、彼がいかに地道に努力を重ねたとしてもその人生が一つの結論に到達するとは限らない。つまり彼は、一生の間すなわち永遠に迷い続けるかも知れない。しかし、ここに一人の完全な人がいて、彼がその人に出会い、その人に自分の人生をゆだねるなら、二人の人生は互いに接近し、彼の人生は、ついに一つの意味のある点に到達することができるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年1月17日 | トップページ | 2008年1月21日 »