« 2008年1月16日 | トップページ | 2008年1月18日 »

2008/01/17

インターネット教会(その3)

 インターネット教会の提供するサービスには、どのようなものが想定されるだろうか。
 オーソドックスなものから挙げれば、まず聖書の学びの支援である。このサービスを利用することにより、ユーザは自分に合った、まさにその時々の自分に必要な聖書の箇所を自分のペースで、好きな時間に学ぶことができる。サイトが支援するのは、豊富なメニューにより、教材の選択における自由度を上げることと、画面上でアンケートや簡易なテスト等を行うことにより、ユーザの嗜好や成長段階を把握し、教材提供に反映することである。そのためには、商用サイトで用いられているユーザとサイトの継続的な関係維持の仕組みであるCRMという手法が使える。
 次に、毎日の静思の時に変化と継続性を与え、神とのさらに深い交わりと献身の向上のためにデボーション支援サービスが想定される。これも仕組みとしては、上記の聖書の学び支援サービスと同様であるが、ユーザの霊的な状況把握に、より多くの工夫が求められる。これは、計画的な継続というよりも、日毎の即時的なニーズへの対応である。それには、セッション管理により、短時間かつ平凡なユーザとのやりとりの中からユーザが求めているものや直面している課題等をつかみ、対応する御言葉等のデボーションのためのコンテンツを検索、提供できるような、ある種のインテリジェンスが求められる。
 さらに交わりや情報交換の支援のためのサービスも想定される。これらは、昨今流行のブログやSNSにより実現できるが、それらサイトの中で実際にどのようなディスカッションが行われているかについて、何も把握せず野放しにすることは、おそらく教会が運営するサービスとしては、好ましくいとは言えないだろう。従来のようなオーソドックスな会議室タイプのサービスなら、コーディネータのような管理者を置けば足りると思われるが、特にSNSは、そのコンセプトが自由なものであるだけに、その牧会的な運用は、一つの課題となるだろう。
 さらには、牧会や牧師会等で忙しい牧師夫妻を支援し、多くの信徒、求道者のニーズに対応できるようにするためのカウンセリング支援サービスも想定できる。これは、コミュニケーション手段はEメールが主体になると思われるが、やはりCRMの技術を適用し、データベースシステムをベースに、これまでの話題とその経緯において認識されてきた課題の蓄積と整理を行っておき、ユーザからの相談に応じて、経緯を十分に踏まえて、即座に適切な対応を行えるように、事例も考慮した情報検索と方針策定を支援するものである。いま述べた範囲は、牧師サイドの支援内容であるが、ユーザサイドの支援としては、カウンセリングの受付と照会の24時間化、マルチメディア化、複数の牧者への平行折衝等々有利になることが多いと思われる。このサービスにおける課題としては、個人情報の適切な管理が挙げられる。
 最後に教会行事との関係を挙げておきたい。つまり、教会でイベントが行われるときに、教会に来られない方々に、どのような恵みと交わりを分かち合うかということである。イベントの予告、事後の報告は良いとして、実施中にオンラインで外部から参加できるような仕組みや、総会等における事前投票や意見聴取等、時間をずらした参加の可能性も追求できるかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

神は存在するのか?

 これは、いかにもキリスト者らしからぬ疑問ではある。そもそもキリスト者は、神が存在すると信じているはずなのだから。しかし、恥を忍んで正直に申し上げれば、私の場合、神に感謝したくなるようなことや神に驚嘆するようなことを体験したそのとき、私の口を突いて出る言葉は、「神よ、やはりあなたは存在されるのですね」というような意味のものである。
 ちなみに私のようなシステム開発を仕事としている者が新しい開発言語を学び始めたときには、まずコンピュータの画面にたった一行の文字列を印字するだけの短いプログラムを作成してみることが常である。その印字する文字列は意図的に決まっていて、「Hello World!」(日本語での意味はオギャー)である。ちょうどそのように、私は自分の体験により、新しく知った神の中に新たに生まれることを希望しているかのようである。聖書の中の信仰の偉人たちもこのことを類まれな表現で言い表した。すなわち、「あなたは生きておられます」と。
 それでは、いかにしてキリスト者の心にこのような、言わば不心得な疑問がわき起ころうとするのであろうか。それは、神が正にそのようなお方であるからである。つまり不可解にも、「神は存在するのか?」という疑問は、神の御性質の中に含まれているのであり、それゆえ、神を信じる者は、「神は存在するのか?」というこの疑問をも同時に自分の財産とせざるを得ないのである。「そればかりか、神がそのように不確定なお方であることは、正に神ご自身が意図されたことなのである。その目的は、「信仰」である。キリスト教の本質は、史実ではなく信仰である。
 それゆえ。たとえキリストを心に受け入れたからと言って、もうすべてにおいて安心ということではない。「神は存在するのか?」という疑問は、信仰者の人生に絶えずやってくる。なぜなら、それこそが神だからである。誤解を恐れずに大胆なことを言えば、私たちは神を見ることはできないし、神を知ることはできない。なぜなら、神は私たちを遙かに超えたお方だから。しかし、私たちは神を信じることができる。神を知るとは、すなわち神を信じることに他ならない。この「信じる」ということ以外に私たちから神へ接近する道はないのであり、それは、一度だけのことではなく、絶えず繰り返されるべき礼拝なのである。神は正にこのことを私たちに要求されるのであり、これほど類まれな、美しくもかけがえのないものが他にあるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年1月16日 | トップページ | 2008年1月18日 »