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2007/12/19

勇士たち

歴代誌上 第18章

 神はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた。彼は、ペリシテ、モアブ、ツォバ、アラム、エドム、アンモン、アマレク等の異邦の民を討って屈服させ、彼らはダビデに隷属し、貢を納めるものとなった。ダビデは王として全イスラエルを支配し、その民すべてのために裁きと恵みの業を行った。
 ダビデは、自分自身勇士であり、戦いの先頭に立って出入りした。それゆえ神は、ダビデに勝利を与えられた。しかし、もっともダビデに特徴的なことは、彼と共におびただしい勇士たちが聖書に名を連ねられているということである。
 勇士とは、なんだろう。それは、ただ戦いに強いだけではない。勇気と信仰、謙遜、柔和、愛、自制、忍耐、等々、賞賛と誉れに値するものを兼ね備えていることが必要なのである。ダビデの周りにはそのような勇士がたくさんいた。ダビデ自身が勇士であったから、そのスピリットを受け継いで、その部下も勇士となったのである。これらのことは、今日における、イエス・キリストと信仰者の関係と同じである。イエス・キリストが勇士の中の勇士であるから、私たち信仰者も彼のスピリットを受け継ぎ、勇士とされるのである。私たちは、この社会を、そして自分の人生を、イエス・キリストのスピリットで、勇士の中の勇士として、ダビデやヨナタンのように雄々しく生きることができるのである。

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インターネット教会(その1)

情報宣教方法論(再び、バーチャルチャーチ)

 現代人の中には、人と話をするのが苦手な人が多いと聞く。話をすることだけでなく、そもそも人と会うのが好きではないということらしい。その理由は様々だろうが、一部のクリスチャンには有名なあのベニー・ヒンは、若い頃、どもりであったらしく、それは彼をして、引っ込み思案や引き隠りに導くに十分であった。しかしそのことが返って、彼と神との個人的な関係を促進し、あのような霊的な器の基礎を作り上げたとも言えるかもしれない。
 そうだとすれば、現代の引き隠り系の中に、霊的な勇士、あるいは少なくとも、改心者予備軍が相当数存在する可能性が高いことにもなる。教会員予備軍は、教会からもっとも離れたところに高い割合で分布していることになるのかもしれない。
 現代の教会は、彼らにどのようにアプローチし、信仰に導くことができるのだろうか。しかしとりあえずの課題が、彼らを教会に連れて来ることであるとすれば、まずその前に立ちはだかるのは、玄関の扉であり、彼らの家族である。彼らは、その奥にいるのであるが、何度その関門を突破しながらアプローチすれば教会に来てくれるであろうか。いっそのこと、教会の出前でも始めた方が有効とも思えてくる。
 しかし、そのような彼らに、いとも易々と到達する方法がある。彼らが使っているパソコンにインターネットからアプローチするのである。最近は、この隠れた経路を通じて、自殺に誘惑される人が後をたたないと聞く。キリスト教会もおちおちしてはいられないだろう。そして、そのようなニーズへの、情報技術からの一つ解答が「インターネット教会」というものである。
 そこでは、アプローチの主体は教会側ではなく、引き隠り系の彼ら自身であり、彼らの個々の状態や要求に応じて、必要なものがそこに用意されているのである。そして彼らは、希望しなければ、教会に行く必要はない。交わりは、電子掲示板やSNS、ブログ等で行う。説教は、ホームページで読み、電子メールでお知らせを受け取り、希望すれば、聖書通信講座も受けられる。このような形態の問題点、課題はどこにあるだろうか。
 一つは、情報交換の手段が制限されることである。直接会えば、目で見て、耳で聞いて、握手もできる。しかし、インターネットでは、相手の服の色も分からない。もっともWebカメラを使えば少しは緩和できるが、所詮2次元の画像である。つまり、インターネット教会における交わりは、聖書の中の登場人物との交わりのようになる。そう考えれば、可能性があるようにも思えるが、現在と過去の区別が曖昧になるだろう。
 それでは、良い点はなんだろうか。一つは、省力化である。一つの伝道のためのコンテンツやツールが、インターネットを通じて多くの人の目に触れるところとなる。その場合に、ビラ配布のような労力が必要ない。しかしその分、コンテンツの質や対象領域の範囲等にも配慮が必要となるだろう。
 これを書いていて、インターネット教会については、考えるべきことがたくさんあるように思えてきたから、急遽、タイトルに連番を振り、(1)、(2)・・・・と書き加えていってみたいと思う。

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ダビデの仮庵

歴代誌上 第17章

 ダビデは、神の箱を自分の町へ運び入れるに際し、あれこれと慎重に考えたであろうし、たぶん預言者ナタンにも助言を求めていただろう。しかし、そのときナタンは、ダビデに明確な答えを与えなかったのだろう。もしかしたら、このとき、神はナタンを通しては、お答えにならなかったのかもしれない、そこでダビデは、自分なりの方法で対応せざるを得なかった。神は、ダビデの心のこもった精一杯の対応を受け入れてくださったが、ダビデの心には、いつもそのことがひっかかっていたのだと思う。
 やがてダビデは、王宮に住むようになり、天幕の中においたままになっていた契約の箱について、改めて預言者ナタンに相談した。すると神は、ナタンを通して、ダビデを祝福し、彼の子孫の繁栄を約束されたのだった。
 神はダビデに「わたしのために住むべき家を建てるのはあなたではない」と言われた。その訳は、ダビデが戦いで血を流しすぎたこともあろうが、神は、そのときのようなダビデとの交わりを喜んでおられたのだと思う。なぜなら、その交わりこそ、主イエス・キリストによって私たちに与えられる聖霊による、神と人との親しい交わりにほかならないからである。そして神はそのことを、後の日になって、預言者アモスを通して、「その日には、わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し、その破れを修復して昔の日のように建て直す」と言われたのだ。

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