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2007/12/04

サウルと神の栄光

歴代誌上 第10章

 ここに記されているサウルに関する記述は、なんと哀れなものだろう。そこには、初代イスラエルの王としての面影はない。あの勇士ヨナタンでさえ、かろうじてその名を留めているにすぎない。サムエルからの召しに従い、民の前にさっそうと躍り出た彼の雄姿は、忘れ去られてしまったのだろうか。彼は、卓越して容姿の美しい人で、民の誰よりも肩から上だけ背が高かった。それを見て民の誰もが、この人こそ神がお選びになったイスラエルの王だと言った。このとき、イスラエルの神の栄光は、明らかにサウル王を通して、民の上に照り輝いていたのであった。
 しかし、そのサウルが、神以外のものに助けを求め、呪いに頼ったためにその王位の中にありながら、戦に倒れてしまった。サウルは、ついに神との一対一の関係に至ることはなかったのだろう。しかし彼は、ダビデを迫害することにより、彼の心を神の前にへりくだらせることに貢献した。このことなくしては、ダビデの従順は形造られなかったに違いない。

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ひとくぎり

歴代誌上 第9章

 この章では、前の章から急に話が飛んで、バビロン捕囚の後にエルサレムへ帰還を許された人々のことが記されている。それは良いとしても、奇妙なのは、それらの後に再び8章の終わりにあったサウルやヨナタンの系図がほぼそのままに繰り返し掲載されていることである。それは、後の10章では、サウルの死について語られ、続く11から29章にかけてのダビデに関する長い言及が控えていることを受けてのことなのだろう。しかしそうすると、むしろ奇妙なのは、ここに突如としてバビロン捕囚後のことが記されていることの方ではないか。それをどのように受け取ったら良いのだろう。
 このブログは、聖書が神の摂理により、最適に編集、保存されて来たという信念で書いているので、上記の一見不整合に見えることでも、歴代誌編集者のミスだとか、複数の編集者間の相互認識不足のなせる業だとかは考えない。というのは、そのような前提は、あまりにも幼稚過ぎて、聖書の価値を過度に低下させてしまうことにもなりかねないから。
 それでは、上記のことの意図はなんだろうか。直接的に推察すれば、歴代誌編集者が、サウルやダビデのことを書き始めるにあたって、まずその前段として、バビロン捕囚という惨事が歴史の中で実際に起こったということを読者に認識させておきたかったからということになろう。つまり、ダビデにおいて確立したイスラエルの王制が、ソロモンにおいて早くも混乱を始め、その後、急速に崩壊しつつバビロン捕囚にまで突き進んで行くのだということである。このことを突き詰めると、神がサムエルに命じて、民の要求通りに他民族のような王制をイスラエルに与えられたのは、王を求めるという民の要求が不当なものであり、それはイスラエルに根付くことなく、結局崩壊してしまうことを歴史を通して実証するためであったと言えるかもしれない。
 しかしそれはまた、そのように大いなる迷いと浪費がすべてであるとも言えない。というのは、神はダビデをわが僕と呼び、慈しんでおられるし、キリストもまたダビデの子と呼ばれるのである。そしてまた、イスラエルの民が自分たちの王をあがめたことがなければ、どうしてキリストを王として崇めることを知るだろうか。そういう意味では、イスラエルの王政は、王の王であるキリストが現れるためにどうしても必要な道備えなのである。
 いずれにしても、歴代誌はここで一度イスラエルの行く末について述べた後に、改めてイスラエルの王政について順を追って語って行くのである。

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