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2007/11/07

神の衣

ヨブ記 第41章

 神の威光は、この世界の中に燦然と輝いている。それらを見るときにわたしたちは神の力と栄光に向けて自らの思いを馳せるのであるが、それは、神ご自身も意図しておられたことなのである。神は、ご自身が創造された中でも最高傑作を誇らしげにヨブに示された。それらは神から創造され、気ままにこの世界を闊歩し、彼らを圧倒するものは存在しない。これらの恐ろしい生き物に神は、ご自身の無限のご性質の中から、特にその大いなる御力を具現化させられた。そして一方、山里の小道に人知れず咲く野の花の可憐な姿には、ご自身の栄華を余すところなく装わせられたのである。
 神は、ヨブにご自身の創造されたこれらの恐ろしい生き物を差し向けられる。神は、ご自身で戦わずに、代わりにご自身が創造されたこれらの動物をけしかけられるのである。それはたぶん、ご自身で戦うと勝つことができないか、あるいはそもそも神は戦うことがお出来にならないのである。神ご自身は、憐れみに富み、災いを思い返される愛なるお方であるからでもあり、またご自身、不動なお方だからである。
 つまり、神はこれらのものを衣として纏われる。それらのものは、古びるが神ご自身は、決して変わることも古びることもない。そして、私たちが見るところ、営むところ、戦略を練り、考え、行動し、時には戦い、取引をしたりするところのすべては、この神の纏っておられる衣なのである。

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勝敗の基準

ヨブ記 第40章

 神は、嵐の中からさらにヨブに答えて仰せられた。「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責め立てる者よ、答えるがよい。」ヨブは、初めて神の呼びかけに答えて声を上げた。「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」。
 ヨブが神に抗議したのは、何のためだったのか。それは強いて言えば、神に負けるためであった。しかし、「負ける」ということは、「勝負した結果」であり、従ってそれはヨブが神と勝負したことの証しである。しかし、いったいこの世界の内で誰が神と勝負したことがあるだろうか。否、そこまで到達した人は、非常に少ない。ヨブは、ヤコブと共に、そこに到達した数少ない一人である。しかし、ヨブが神に勝つためには、この場合に神が提示されている条件によれば、彼が神と同じ威光を身に纏う必要があるのである。なぜなら、人が神と勝負する場合、その勝ち負けの基準は、あらかじめどこにあるわけでもなく、それは神が決めるのだからである。神は、かつてヤコブと戦われたとき、この基準を非常に低く設定された。神は、多くの天使たちをヤコブの味方につけることにより、彼を勝たせられたのであった。しかし今、ヨブと勝負する神は、その勝敗の基準を逆に非常に高く設定されたのである。そしてヨブに言われた、「男らしく、腰に帯をせよ。お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするためにわたしを有罪とさえするのか」と。
 神は、この勝負でヨブに負けるわけにはいかなかったのである。そしてそれは、神ご自身のためでもあり、またヨブのためでもあったのである。

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内在者

ヨブ記 第39章

 多くの人は、神について、すべてを超越したお方であるような印象をもっているのではないだろうか。そう、天地を創造されたときに、一度だけこの世界に介入され、その御腕でプッシュされた。すると世界が動き出し、その後は永遠に至るまで、すべてが自動的に動いており、神ご自身は、もはやこの世界と直接の関わりを持ってはおられないというようなイメージである。
 しかし、神がここでヨブに語っておられる姿は、そのような概念とは、なんと異なったものだろう。神は、岩場の山羊や雌鹿が子を産む場所を知っておられるだけでなく、その月日を心待ちに数え、彼らの産みの苦しみを見守られる。野ろばや野牛に自由を与え、駝鳥の気ままな振る舞いを楽しまれ、戦いのために馬を創造し、鷹にさえ分別を与えられる。
 この超越者にしてしかも内在者である神こそ聖書が啓示している神ではないだろうか。かつての信仰の偉人が言ったように、神はすべてを造られた後に、そこから去って行かれたのではなく、ご自身、その内に留まられたのである。そして、時至って、自ら人となって天から降られ、30余年の生涯を生き、病を負われ、苦しみを体験した後、我らの罪を十字架上で購われたのであった。

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神というお方

ヨブ記 第38章

 エリフがなおも話し続けていると、外を吹く風の音が次第に大きくなり、やがて嵐となった。このただならぬ様相に、そこにいた皆は話をやめて沈黙した。すると、その嵐の中から神の声が響き渡った。
 神はヨブに、容赦のない叱責の言葉を浴びせられた。しかし、何ということだろう。それは、裁きの言葉ではなく、父がその愛する子に向けて語る叱責の言葉であった。しかし、義にして全能なる神を糾弾したヨブが、神から同意やなだめの言葉を受けることはあり得ない。例えあったとしても、そのようなものからは、ヨブの心も決して安らぎを得ることはできない。神の前にダダをこねている子供であるヨブにとって、この神の叱責の言葉こそが唯一の慰めであり、真実の励ましでもあったのである。
 神は、天地創造においてご自身が行われたすぐれた御業を挙げつらわれた。また、現在においても継続されている、全宇宙に及ぶ自然の営みを動かされるご自身の神秘の御業を列挙された。そしてヨブに向かって、「わたしはこれらのことを行ってきたが、あなたはいったい何をしてきたのか」と叱責さたのであった。しかし、これはいったいどうしたことなのだろう。それは、どう見ても神にはふさわしからぬことではないか。神がそのようにヨブと本気で議論、いや格闘しておられるとは。神は、ヨブをからかっておられるのか、あるいはみそっかすにしておられるのか。それとも諭しておられるのか。わたしは、それらのいずれでもないと思う。むしろ神は、ヨブとまさに本気で議論しておられるのである。
 しかしいったい、そのようなことがあり得るのだろうか。つまり、この全宇宙を創造されたお方が、実は議論や格闘においては、病気で死にかけている一人の人と力においては大差なく、大いなる決意と用心を持ってあたらなければ、負けてしまうようなこともあり得るのだということが。また、知恵と力において、並ぶもののないお方が、他方憐れみにおいては、いとも易々と相手の駆け引きに乗り、思う壺にはまって、下すべき裁きをまんまと思いとどまらせられてしまうというようなことがあるものだろうか。私は、そういうこともあり得ると思う。この世界には、どんなことでもあるのである。そして、そのように聖書を先入観なく読むときに、神は実はそのようなお方であり、妬む神にして、親の罪を子に報い、3、4代に及ぼす一方で、赦すに早く、災いを思い返される、愛すべきお方であり、実はあどけない子供が心に描く神の姿に限りなく近いのかもしれないということに思い至るのである。

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