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2007/11/04

善悪の彼岸

ヨブ記 第36章

 エリフは、さらに彼の確信を語り続ける。それは、彼が人生を生きる中で、苦悩と共に体得した知識であった。彼は、若いが苦労を積んできており、人生についても人並み以上の洞察を得ていたのであった。
 彼の確信は、こうである。人生には、なぜ苦難があるのか。それは、神が人に正しい道を教えるためである。神は力強く、完全な知識を持っておられ、この世界に義が全うされることを望んでおられる。しかし人には、生まれつき正しく生きるための知識がなく、大いなる迷いの中に生きている。しかしこの世界には、神が定められた大法則がある。それは、神に従って正しく生きる人は、呪いから解放されて幸福な人生を歩めるが、神に背を向ける人には、神から苦難が与えられるということである。それゆえ人は、神の備えられた苦難によって成長する。従って苦難こそ神を知る知識の源であり、苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役にたたない。エリフは、自分の人生を真剣に生きる中で、神に対する知識を捜し求めた。そして、自分の得てきた知識のすべてを動員して、人は神の前にどのような存在であり、従ってどのように生きるべきであるかということを語った。
 何人も人生を生きつつ、自分の力で神を探し求める限り、このエリフの認識以上に先に進むことはできない。人は、人間がどのように不完全な存在であり、それに対して神は、どのように力強く、知恵があり、優れた存在であるかを推測することができる。そして、その結果として、人の知恵は所詮愚かであり、人にとってはただ神にひたすら従うこと意外に道はなく、それが人に与えられた最高の知恵であり、また神との最高の関係であると結論するに至る。エリフは、そのようにこの世界における人の立場から神へのあり得べき最高の接近の可能性を語ったのであった。しかし、ヨブはこのエリフの提示した神との関係を明らかに超えて、さらに先へ進んで行こうとしていた。そこでエリフには、このヨブの試みこそが罪であり、人間にはあり得べからざることに見えたのであった。
 ああしかし、本当にそうだろうか。歴代の信仰の先輩たちも、エリフの言うように、神との関係を、ただただ神への従順の中で生きまた死んで行ったのであろうか。アブラハムはどうだっただろうか。彼は、ときには神にすべてを任せることができずに、他国の王への恐怖心から、自分の妻サラを妹だと言ったりしたのではなかったか。しかし神は、そのようなアブラハムを天幕の外に連れ出して、「夜空を仰いで、星を数えることができるなら数えて見よ。あなたの子孫は、この星々のようになる」と言われたのではなかったか。またイサクは、そしてヤコブはどうであったろうか。ダビデはどうだったろうか。彼らはみな、神に完全に従順な者ではなかった。しかし、神は彼らを祝福し、彼らを通して大いなる御業を行われた。ここに何かがある。エリフに不足している何かがあるのである。それは、何だろうか。それはたぶん、善悪の判断をも超えた彼岸にあるものであり、それが、ヨブ記のテーマなのだと思う。

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山ぐるみが割れた

Yamakurumi 昨日買ってきて、割って食べるのに散々悪戦苦闘した山ぐるみが、パカッと割れた。そうか、これはもしかしたら、割れるようになるまで待たなければならないのだろうか。とにかく、あの石のように硬かった殻に、あるとき一筋の亀裂が走り、それが中身と外界の接触点となる。山に住むリスたちは、この秘密を知っていたのだろう。そして、この硬い硬い木の実をいともやすやすと割って、中身を食べているのだろう。また、リスの手を逃れた山ぐるみの実は、誰にも目につかないところで、この亀裂から一筋の芽を出し、次の世代の山ぐるみの木となるのだろう。自然の神秘のほんの一端を見た思いがした。

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