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2007/10/27

最高のささげもの

ヨブ記 第31章

 ヨブは、己の潔白を主張してやまなかった。彼は、自分に対して提示された疑念のすべてを否定し、神の前に自分の存在のすべてを賭けて身の潔白を主張した。それは、宣誓とも言えるものであり、これを受け入れない人は、ヨブの存在そのものを否定することになり、もはやヨブの前に居続ける意味はないことになる。なぜなら、彼らヨブの友たちは、ヨブの幸福ためにそこに来ったのだから。
 ヨブの主張によれば、彼にはいっさい責められるところはない。彼は、アダムさえ引き合いに出して、「私は彼のようではない」と断言する。彼は、この地上でただ一人、無垢な者なのである。そして、それゆえ彼の友たちには、ヨブの言うことが信じられなかったのであった。
 無垢な者、それは第二のアダムであり、完全な人間である。本書第1章8節によれば、それは神も認めるところである。しかしそれは、ヨブが原罪を持たないという意味ではないだろう。もしそうだとすると、ヨブ記は創り話となってしまう。ヨブ記が実話であり得るとする限り、ヨブの義は、この世界を生きる、原罪を持つ人間の可能性としての最高の義ということになる。そして、悪魔の主張は、ヨブがそのような義を持ち得たのは、この世の幸福が彼に十分に与えられていたからであるというのであった。
 しかし、本当にそうであろうか。実際は幸福な人ほど、神から遠いのではないだろうか。主イエスも、「悲しんでいる人々は幸いである」と言われたではなかったか。しかし、神ともあろうお方が、このような悪魔のそそのかしに乗って、愛する僕ヨブを不幸に陥れられるというようなことがあり得ようか。それは考えられない。そこで、これは神の御心なのであり、神は愛する者、無垢な者を苦しみに遭わせられるのである。それは、まさに究極的な状況であり、その状況においてすら神に従順であることを神は求められるのである。そしてそれこそ、神が私たちに求められる、そして私たちが神に差し出すことのできるものの内の最高のものに違いない。かつてそれを捧げられた方がおられた。そのお方は、私たちの主イエス・キリストである。

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