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2007/10/25

キリストの苦難

ヨブ記 第30章

 神に特別に恵みを注がれていた自分自身について誇り高く語ったヨブは、次にそれと対象的な現在の境遇を嘆く。しかしそれはまったく、何と言う悲惨だろうか。この二つの境遇の間は、さながら天と地ほどの差があり、冷静に語っただけでもその大いなるギャップに驚きを禁じえない。かつてこれほどの境遇の奈落に陥った者があっただろうか。サウルの前を逃れて森を逃げ惑うダビデもこれほどの転落を経験しなかっただろう。また、大いなる王の座から気が触れて森の中に露に濡れるままに牛のように草を食らいながら七つの時を過ごしたネブカデネザル王でもこれほどではなかったのではなかろうか。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っていた。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。・・・・・・
 おお、それはまさに、天の栄光の御座から罪の世に下られた、キリストの経験された苦しみに匹敵するものではなかったのか。ヨブの苦しみ、その謂れの無い苦しみは、まさにキリストの苦難の予表ではなかったのだろうか。

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神の恵みを誇る

ヨブ記 第29章

 ヨブは、かつて自分の上に注がれていた神の恵みについて語った。神を語ることは、神の恵みを語ることである。世の知者と呼ばれる人々は、「神とはこういうものだ」というような語り方をする。しかし、それは根本から間違っており、自分を神の上に置いているのだという簡単なことにすら彼らは気づいていない。しかし、神を知っている人は、自分に注がれた神の恵みについて証しする。そして、それこそが神について適切に語ることなのである。
 ヨブが語った神の恵み、それはなんとすばらしく、かけがえのないものだったことだろう。ヨブは、彼に恵みを注がれる神により、大いなる者であった。彼は、そのような自分を誇った。しかしそれは、神により大いなる者とされた彼についてであり、彼自身を誇ることは、ヨブにおいては、そのまま神を誇ることであったのだ。

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三位一体は聖書的なのか?

 「三位一体」という言葉をときどき聞くことがある。聖書のどこに書かれているのかと言えば、それは、文字通りには書かれていない。しかし、「奥義」と言って、書かれていない教理があるという。つまりそれは、間接的に書かれていて、そのように推測されるのだ。三位一体は、この奥義に含まれる。
 例えば、マタイの福音書28章19節には、「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ」とあり、またヨハネの手紙第一の5章には、証しをするものが三つあり、それらが聖霊と水と血であり、これら三つのものは一致すると書かれている。
 しかし奥義と言えども、三位一体は、決して突飛な考えではない。それは、オーソドックスな信仰から、聖書に従って自然に考察することにより帰結する面もある。まず聖書によれば、父なる神と子なるキリストは、二つでありながら一つであり、同等の神であることが読みとれる。父なる神は、御子にすべてを与えられたし、御子ご自身も私はすべての権威を授けられたと言っている。しかし彼はまた、私は父によらなければ、何事も成し得ないと言われた。このように父と子は一体なのである。
 それでは、聖霊についてはどうなのか。第一に、主イエスは、「私は、あなた方を捨てて孤児とはしない。またあなた方のところに戻って来る」と言われ、「聖霊が来るとき、私があなたがたに話したすべてのことを思い起こさせる」と言われた。さらに主イエスは、聖霊を汚す者は永遠の罪に定められると言われている。そのように聖霊と主イエスすなわち御子もまた一体なのである。
 しかし、上記のことがあったとしても、なぜわざわざそれらのことから「三位一体」という教理を導き出さなければならないのだろうか。それは、一つは異端への対処である。父、子、聖霊の三つが一つの神ではないと仮定すると、キリスト教は多神教となってしまう可能性もある。反対に、御子が神でないとした場合には、エホバの証人が言っているように、彼は天使だということになり、キリスト仮現説(肉の体を持たないという説)に陥る可能性が出てくるか、または、人間崇拝となる危険性もあるだろう。
 しかし私は、三位一体の本質は、その信仰規定の形態だと思う。この教理から、すばらしい信仰がもたらされる。それは、私たちから見た場合、御子を中心としたものとなる。まず、御子が唯一の神であるゆえに、御子以外の人間が神とされることはない。また、御子が人間でもあるゆえに、私たちは、神に限りなく近い存在である。私たちは神の子であり、神を父と呼ぶことを許されている。また、聖霊が神であるゆえに、私たちには神の思いが与えられており、御子にも限りなく近い存在なのであり、この世界を御子のように生きることが可能とされているのである。

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