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2007/10/20

洗足

ヨハネの福音書(第13章前半)

 ブルトマンは、ヨハネ福音書を「愛の啓示の書」と考えているようだ。そして、12章までと13章以降を厳格に区別して考える。前半は、「愛」すなわちイエスがこの世を獲得するためにどのように戦われたか、後半は、「愛」が教会にどのように啓示されるのかを示しているという。ブルトマンにとっては、聖書はあくまで啓示の書である。神とは、啓示であり、ブルトマンにおいて、認識はそれを超えては進んで行かない。イエスの働きは、「光と闇との分離を生じさせるもの」であり、それにより教会は世に対立する仕方で地上に存在している。そして、いまやイエスは、ご自身がこの世から選び分かたれた弟子たち、すなわち教会から去って行かれようとしているのであり、その訣別の講話がこれから始まろうとしているのである。イエスは、去られるに際して、教会に何を残されるのだろうか。ブルトマンによれば、イエスは形のあるものは何も残されない。例えば、儀式とか、聖霊典とか。特にこのヨハネの福音書においては、奇異なことに、「主の食事」すなわち聖餐式の制定はなされていないし、洗礼の儀式の継続さえも、この福音書のどこにも示唆されていない。またブルトマンは言う、この場面におけるイエスの洗足の出来事もまた、洗礼の儀式の継続を示唆するものではないと。
 それではイエスは、教会に何を残されたのだろうか。ブルトマンによればそれは第一に、イエスの語った言葉である。「私が語った言葉のゆえに、あなたがたはすでに清い」と主イエスは言われた。つまり、言葉が彼らを清めているのである。そして第二に、イエスが弟子たちのために行われた「奉仕の模範」である。これら二つのものは、それが与えられた情況では、まだ完全に理解され、受け取られることはない。それは、イエスがペテロに言われたように、彼らが「あとで知るようになる」のである。この「あとで」とは、どういう意味だろうか。それはブルトマンによれば、「この可能性(あとで知るようになる)は、彼(信仰者)がすでに手にしているものなのであるが、その信仰が試練を克服しなければならない時にこそ自分のものとなるという仕方で彼に開示されるのである」ということである。つまり、信仰者は聖書を読み、その意味を自分の心に蓄えるだけでは信仰を自分のものとすることができない。彼が、人生の試練に遭遇して、聖書の言葉と自分の信仰によりその試練を乗り越えるときにこそ、イエスの言葉が自分のものとなり、彼がイエスの弟子であることが自覚されるのであるということである。
 このようにブルトマンは、徹底して実存主義的であり、イエスはかく私たちの人生で私たちを待ち、守り、導かれると言うのである。彼は言う、「イエスの命令の実行とは、彼のわざに似たわざを行うことではなくて、他者に対しイエスと同じ存在になる心構えをすることである」と。ああしかし、信仰がそのような人間の強い決断と実行に掛かっているのだとしたら、彼のこのアプローチは、もしかしたら「強い者」のアプローチなのではないのか。すべての人が、そのような決心ができるだろうか。そして、この信仰レベルがあまりにも高いゆえに、それは逆に、新普遍救済主義(すべての人は、すでに救われているという考え)に傾く危険性がないだろうか。しかし私は、ブルトマン自身は、新普遍救済主義者ではないと思う。そうなるには、彼はあまりにも実直すぎると思う。そこで、この段階の疑問としては、聖書に「イエスは、・・・・世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれていることが、ブルトマンによると、愛の啓示と模範の提示なのであるが、「愛の行為」そのものの重要性、つまり教育でも教授でもないところの「愛」そのもの、理由も目的もなく、強いて言えば、それそのものが目的であるような「愛」、その場で惜しげもなく注がれ、そして消えて行ってしまうようなもの、マリヤがイエスに注ぎかけた高価な香油のようなものには、意味がないのかということである。ブルトマン自身がこの書の中で、「その時には、霊が知識を与え、すべての真理へと導くであろう。その時には、イエスはもう謎によってではなく、あからさまな言葉で語るであろう」と書いていることが、彼の提唱する「人生における困難の克服による信仰の向上」という意味ではなく、今も実際に生きて働かれるイエスという実存の直接の守りと導きという意味であったなら、それも可能だと思うのだが。

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