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2007/10/17

躓きと信仰

ヨハネの福音書(第12章後半)

 「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と諸手を上げてイエスを迎えた群衆は、再びイエスご自身の言葉によって己が信仰を吟味されることになった。そのイエスの言葉は「真理はあなたがたを自由にするであろう」というものであり、これは、彼らにとっては心外な言葉であった。彼らは自分たちをすでに自由になった者として認識していたからである。
 神の真理は、かく信じる者を篩にかける。それは、そこにあえて躓きの可能性を作り出すのである。躓きは、なぜ発生するのか。ブルトマンによれば、「人々が差し出された救いに無条件で自分を引き渡さないで、つまり自分を放棄しようとしないで、かえって失われたあり方にしがみつくから」である。そして再びブルトマンによれば、真の信仰は、この躓きを克服したところにあるのであり、これを越えずにそこへ到達することはできないのである。
 躓きは、終末論的に繰り返し信仰者を襲う成長の契機であり、そこにおいて信仰者の心に目覚める信仰告白が克服の原動力である。信仰者は、信仰から生じるこの認識を自分の口で告白することにより、自分の生来の限界を越えて、迫り来る恐怖と誘惑に勝利するのである。「あなたがたも去ろうとするのか」との主イエスの問いかけに、ペテロは「主よ、私たちはだれのもとに行けばよいのでしょうか。あなたは永遠の生命の言葉をもっておられます」と言った。このペテロの「あなたは・・・です」との告白は、主イエスご自身の「わたしは・・・である」との決定的な自己啓示への応答であり、それを成し得た信仰者は、また自分が聖なる選びの中にいることを理解するとブルトマンは言いたいのだと思う。
 ああしかし、その信仰告白を成し得ない信仰者はどうなるのか。ブルトマンがここで言及しているのは、夜こっそりとイエスを訪ねて来たあのニコデモやアリマタヤのヨセフのような信仰者のことである。ブルトマンは言う、「このような密かな弟子たちは、明らかにまだ彼らの信仰が真正なものになる可能性をもっている」と。しかし、彼らがどのようにして自分たちの信仰の段階を超克して、あるべき信仰の状態に達することができるのかについては、ブルトマンはただこう言うだけである、「自分自身の決断の上に建てるか、自分の選びの意識から確かな所有物を作り出すかするのはだれか」、また、「彼はそれをあえてなす勇気を奮い起こすであろうか」と。たぶんこれがブルトマンの、つまり実存主義的神学の限界なのだろう。というのは、もし彼が、「彼らはこうすればよい」というようなことを言ったとしたら、それはすでに実存主義的ではなくなってしまうだろうから。ブルトマンはただ、「こうでなければならない」ということを言う。しかし、そうなるための方法論は語らない、なぜなら彼は実存主義者だから。実存主義とは、それぞれのやり方があるということであり、救われるための決まった方法論などは存在しないのである。
 しかし私は思う、実存主義者であることは、そんなにつまらないものではないと。それは、キルケゴールが言うように、人間をその最大限の可能性から考察するものに違いない。そしてそれは、神が人間をご自身の姿に創造したと聖書に書かれていることに整合する。この点、福音主義は、人間をあまりにも安易に取り扱いすぎているように見える。しかし、キリスト教は、なんとしてもこの実存主義の限界を超えて行かなければならないと思う。そうでないと人々の共感は得られたとしても、魂の救いは実現しない。このギャップを埋めるものは何だろうか。人間という実存が信仰への決断に迷っているときに強力に手を差し伸べられるもの、それは、もしかしたら奇跡を信じる信仰、すなわちカリスマ信仰ではないだろうか。人々の目の前で実際に起こる奇跡こそが、彼らの実存を揺り動かし、救いへの決断を可能とするのである。
 だからブルトマン自身もこの章の中でそのことに気付いている、「驚くべきことは、彼の『しるし』は講話に従属させられていたし、彼の本当の働きは啓示する言葉によって遂行されていたにもかかわらず、イエスの言動が『しるしを行う』という表現で述べられている点である」と。これは聖書に、「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」と書かれていることについて言及しているのである。

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