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2007/10/13

イエスへの接近

ヨハネの福音書(第12章)

 イエスは、その福音の始めに「天国は近づいた」と言われた。天国がイエスという人を通して、私たち人間が住むこの世界に接近したのである。しかしイエスは、この第12章においてはこう言われる、「わたしがこの世を去るときには、すべての人をわたしの元へ引き寄せる」と。そのように、この章においては、いまや期せずしてイエスの元へ人々が接近を始めるのである。それは、イエスがこの地上で栄光を表し、父の元へ帰られるときが近づいているからである。
 過ぎ越しの祭りの6日前に、イエスがベタニアに行かれたとき、夕食の席で、マリアは高価な香油を手にイエスに近づき、彼の足に塗り、自分の髪の毛でぬぐった。そこにはイエスが死から甦らせたラザロがいたので、そこへ大勢のユダヤ人がやって来た。彼らは、ラザロに起こった奇跡により、イエスを信じるようになった。その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出て、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫んだ。しかしイエスが進んで行かれた栄光の道は、彼に接近して来た人々すべての期待に応えるものではなかったばかりか、多くの人はやがて再びイエスという人に躓いて、去って行ってしまった。というのも、イエスが歩んで行かれたのは、十字架への道であったのだから。
 それではイエスは、どのようにして人々をご自分に引き寄せることをされたのだろうか。ブルトマンによれば、ヨハネ福音書は、グノーシスの神話論を非神話化するものである。祭りに来ていた何人かのギリシア人がイエスにお目にかかりたいと言ってフィリポのものに来た。イエスがそれを聞かれたとき、心を騒がせて言われた、「人の子が栄光を受けるときがきた、・・・・父よ、わたしをこの時から救ってください」と。しかしイエスは、ご自身ですぐそれを打ち消されて言われた、「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」と。すると、天から声が聞こえた、「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」。
 ブルトマンは言う、「神話では、『私を救ってください』という願いと『栄光を現してください』という願いとは同じ意味であるが、ヨハネ福音書では、子が地上の存在を完全な深さでその身に引き受けることによって、父が栄光を受けるのである」と。つまり、奇跡信仰は、この世的な勝利による神の栄光の現れを期待するのだが、イエスが十字架へ向かって進んでいるのであるかぎり、彼が人々をご自分に引き寄せるのは、そのようなことを通じてではなく、人としての弱さを生き抜く中で、神に従い通すことによるのである。そしてブルトマンは言う、「イエスがこの時、不安に怯えた一人の人間のような姿で現れることによって、このような時におけるこのような決断はすべての人間に課せられていることが明らかになる。だがイエスは、人間に求められている振舞いを範例的に示す原型であるだけでなく啓示者でもある。いや彼は何よりもまず啓示者である。その啓示者の決断が、そのような時に神につく人間の決断を初めて可能にするのである」と。私たちは、このときのイエスのように、苦難を前にして怯え、「この時から救い出してください」と祈り、そして、その後に、「御心が行われますように」と祈る力を与えられ、そのとき神が「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」と語られるのを聞くのである。

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ラザロの甦り

ヨハネの福音書(第11章)

 10章における羊飼いとその羊の関係は、死をも越えて継続する永遠の関係であった。そして11章では、それを主イエスが実証するかのように、ラザロの甦りの話が展開されている。
 死人が甦ることは、それ自体非常にインパクトのあるできごとではある。しかし、これは実は本物の雛形でしかない。本物は、主イエスの復活であり、終わりの日の甦りなのである。というのは、ラザロは一度甦っても、いずれまた肉体の死を経験しなければならないからである。
 聖書には、イエスはラザロを愛しておられたが、彼が病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在されたと記されている。主イエスのこの遅延により、ラザロは病気の中に苦しみ、死んでしまった。ラザロの姉妹マリアとマルタ、そしてその家族たちも、それにより大きな苦しみに陥ることになった。死は、かく私たち生ける者に力を及ぼす。ブルトマンは言う、「人間はたいてい死によって起こる生そのものの無化が無効になるということなら、喜んで聞こうとするものである。だがそれは、安堵してにせよ、不安からにせよ、自分が最高善として知っている生命に更に強く執着しようとすることでしかない」と。
 主イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。イエスが来られたことを聞いたマルタはイエスを迎えに行き、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言った。ああ、なぜ主イエスは、早く来て下さらなかったのか。しかし、主イエスが病床のラザロのことを聞いて、さらに2日間もその場に留まられたのは、実にこの言葉を語るためであったのだ。ラザロとその家族が死というこの上ない暗さの中に置かれているその状態の直中で。すなわち「あなたの兄弟は甦るだろう」と。
 ああ、この主イエスの言葉は、私たち信じる者に向かって永遠に語られ続けている。私たちが幸福なときも、病めるときにも。ただしそれが語られるのは、甦りの後では決して無い。いまこの世を生きる苦難の直中において、この主イエスの言葉が私たちに向けて語られ、私たちの心に永遠の命への希望を呼び覚ますのである。私たちがこの世を生きるとき、その生活はいつも幸福ばかりではなく、むしろ苦難があり、病があり、恐れが同時にそこにある。しかし、ブルトマンは語る、「信仰者は地上の死を死ぬとしても、それにもかかわらず、より高い、究極的な意味では生命をもっている。また、まだ地上の生にとどまりながら信仰者である者にとっては、究極的な意味では死は存在しない。死ぬことは彼にとって実体のないものになっている。人間的な意味での生と死、最高の善と最深の恐怖が彼にとっては実体のないものになっているからである。彼が啓示者を信じつつ見ているかぎり、彼は神自身の前に立っているのである」と。

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