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2007/10/11

良い羊飼い

ヨハネの福音書(第10章)

 前章までの「世の光」としてのイエスに関する講話に続いて、10章においては「良い羊飼い」の講話が展開している。これは前者と同様に、唯一真の啓示者としてのイエスを提示していると共に、新しく重要な概念であるところの主イエスと信仰者の関係をも含んでいる。ブルトマンによればこれはまた、そのことにより決別講話的な要素を持っているという。まあ、それはおくとして、ここで啓示者と被啓示者との関係が展開されていることの趣旨は、真理を探求する者が追求すべき道、それも唯一の道を提示することなのである。
 真理の探求は、一般的にはそれを志す各人がそれぞれに自由なアプローチで行って差し支えないのであり、一般通念もそれを否定しない。この場合、真理というものは、まだ誰にも明らかになっていないものであり、それゆえに、その探求にどのようなアプローチが最適なのかということ自体も探求の対象だからである。
 しかし、ここに真の啓示者、つまり真理をすでに知っていて、それを手にもっている者がいるとしたら、真理へのアプローチもまた彼の手に握られているのである。それゆえイエスは、自分以外の啓示者をすべて否定して言われる「わたしの前に来た者は、みな強盗であり盗人である」と。しかしまた続けて「羊は彼らに聞き従わなかった」と言われる。ここに新しい概念としての「羊の判別能力」とでもいうべきものが提示されている。つまり、彼イエスが真の啓示者であることの確証を与える判断基準は、ここでは上からの一方的な啓示ではなく、啓示者と被啓示者の関係の中にあることを示している。しかもこの関係とは、ここでは主イエスと教会の関係のような一対多の関係ではなく、主イエスと信仰者個人との一対一の関係なのである。それでは、そのような関係はいつ、どのようにして措定されたのであろうか。ブルトマンによれば、ヨハネは独特の予定思想によりそのことを「あなたがたが信じないのは、あなたがたが私の羊に属さないからだ」と表現しているという。そしてブルトマン自身もそれを否定してはいない。しかし彼は、この章への言及の後の部分で、こう言っている、「この関係は、本性上与えられているもので、人間がそれを想起さえすればよいというような明確な関係ではない。むしろ、彼はそれについて決断をしなければならない。啓示者の呼びかけがすべての人間にむけて成り響いているとすれば、すべての人間は啓示者に所属している自分の本来の存在を発見する可能性と失う可能性を併せ持っているのである」と。
 これは、先に彼が言及したヨハネの予定論とどのように調和するのだろうか。たぶんそれはこういうことではないだろうか。良き羊飼いである主イエスが来るということは、歴史上のある一点を表していると共に、これはブルトマンの歴史概念に特徴的なのだが、イエスはすべての人に、彼らそれぞれに固有の時に彼らの存在の場に来て出会われる。この終末論的な出会いは、人が神を自分のために探求している間は起こることはない。しかし、イエスの言葉が人に向かって問いかけられることにより、彼のそれまでの自己理解が根底から動揺させられ、自分の実存が暴露されるに至たとしたら、彼には自分の意思による決断という契機がもたらされることになる。そして、この永遠の決断を通じて彼は、自力の探求への努力という呪縛から解放され、上からの啓示を受容するというそれまでになかった新しい性質と可能性を受け取るのであり、そのとき彼は、彼の全人生において、すなわち全歴史において、永遠から永遠に至るまで、新しい存在となり、その結果ヨハネの予定論からも解放されるのである。そしてこのことが起こるということ、すなわち主イエスが良い羊飼いであることは、主イエスが地上におられたときには、彼の行っている業により、また彼の死後にあっては、十字架と復活により、信じる者に対して確証されているのである。

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