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2007/10/02

神の似姿

ヨブ記 第22章

 テマン人エリファズが再びヨブに挑戦した。彼は、自分の信じる人間観を展開した。彼は言った、「人間が神にとって有益でありえようか」。
 彼にとって、人間は神の前に何の価値も無いものにすぎない。たとえ人が正しく、神の前に完全な道を歩もうとも、それは神の利益にはなり得ず、神がそれを喜ばれることもあり得ない。従って、そのような人間に対して神が何かを期待されることもまたない。神が行われることはただ、ご自身の義に従って、悪人に罰を与え、善人に恵みを施されることだけである。そのように考えることは、人間が神の前に持ち得る最大の謙遜だと彼は考えたのであった。
 ああしかし、もし人生がそのようなものだったら。人の存在が神の前にそのように取るに足らないものであったなら、人はいったい何のために生きるのであろうか。また神は、何のために人間を創造されたのであろうか。
 テマン人エリファズのように考えることは、本当に神の前に遜ることであろうか。一見そのようにも見えるのであるが、実はその反対であることが分かる。なぜなら、彼エリファズ自身が神の作品であることを彼は見逃している。それゆえ自分を卑下し、神の前に取るに足らないものと考えることは、神への冒涜につながりかねないということを彼は見逃している。神は、自分を愛するように隣人を愛せよという戒めを与えられた。「自分を愛せよ」と神はいわれるのであり、それは神にとって戯れごとではなく、厳格な命令なのである。神は、ご自身の似姿に人間を造られ、これを私と同様に敬えと命じられたのである。そして、それゆえにキリストもまた言われたのである、「これらの小さい者にしたのは、わたしにしたのである」と。

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聖別と裁き

イザヤ書 第13章

 ここには、前章とは打って変わって、裁きの言葉が書き連ねられている。「わたしは、自ら聖別した者らに命じ、わたしの勇士、勝ち誇る兵士らを招いて、わたしの怒りを行わせる。」この「聖別」という意味は、「聖なる民」という意味ではなく、神を知らない野蛮な民を神の聖なる目的のために用いられるという意味である。
 神は、その聖なる目的のために、遙かな昔からバビロンを備えておられた。信仰の父アブラハムの故郷ウルもこのバビロンのそばもしくはその中にあった。そしてイスラエル民族は、アブラハムを父と呼ぶゆえに彼と同じセムの子孫に属し、ノアによって呪われたハムの子孫であるカナンの地に来てそこに住んでいたハムの子孫を追い出してそこに増え広がった。これらのことは、歴代誌上に書いてある通りである。神は、これら多くの民族のなかから、イスラエル民族を選び、特別な恵みを与え、この民族を通してご栄光を現そうとされたのであり、それは、信仰の父アブラハムのゆえであるが、アブラハムの生まれる前から、すなわち、ノアの子孫として種々の民族が形作られるときにすでに選びによって決められていたのであった。
 このイザヤの時代に、イスラエル民族は、南北に分裂し、両国とも不安定な状態であり、ときには神に忠実な王も起こったが、それも永くは続かず、結局まずエフライムがアッシリアに征服され、その約170年後にはユダもバビロンに征服されてしまうことになる。神は、このイスラエル民族への裁きの執行に、彼らと同じセムの子孫を聖別して用いられたのであり、それは、ノアの語ったセムへの祝福とハムへの呪い、そしてヤフェトへの哀れみの言葉の結果でもあるのである。

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二つの感謝の歌

イザヤ書 第12章

 列王記下は、バビロン捕囚へと突き進むイスラエルの悲惨な歴史である。しかしここに記されているのは、二つの小さな感謝の歌である。
 「その日には、あなたは言うであろう」。「あなた」とは、イスラエルのことであり、彼らの背信が招いた罰から神により救い出されたことへの感謝である。神は、怒って彼らを御前から投げ捨てられたが、しばらくの時の後、彼らを赦し、哀れみ、災いから救い出し、再び慰めを与えられた。それは、彼らの行いの結果ではなく、ただ神の哀れみによるのである。
 もうひとつの歌、「その日には、あなたたちは言うであろう」。「あなたたち」とは、異邦の国々のことであり、イスラエルの背信により、救いが全世界に及ぶようになることを言っている。その日には神は、選民イスラエルだけの神ではなく、全世界の神と成られる。それは、エルサレムで崇められる聖なる方が、同時に「あなたがたのただ中にいます大いなる方」となること、すなわち、イエス・キリストという一人の人として生まれ、彼の名によってすべての人の心に聖霊が与えられることにより実現するのだ。これ以上の感謝すべきことがあるだろうか。

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平和の王

イザヤ書 第11章

 イスラエルは、ソロモン王のときに非常に栄え、その栄華は、遠い諸国にまで伝わるほどであった。神はダビデの従順ゆえに、ソロモンに大いなる知恵と権威、財産を賜り、彼によりイスラエルに栄光を現された。それは、知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊であり、イスラエルに神の知恵による公平な裁きが顕現したのだった。
 しかし、栄華を極めたソロモンが後になって異境の女たちを愛して妻にし、彼女たちの崇める神々を重んじ、それらのために聖なる高台を築くようなことになろうとは。神は、ソロモンの父ダビデのゆえに彼に災いを下すことはされなかったが、彼の背信ゆえにイスラエル王国は、ユダとエフライムに分裂し、神の都を持たないエフライムをまとめるために、ヤルブアムが偶像を作り、一般人から祭司を起用するような甚だしい罪へと発展して行ったのだった。イスラエル王国は、一つでなければ成り立たない。神を礼拝する都は、一つだからである。
 それゆえ、ソロモンがいかに賢くても、またいかに富んでおり、その栄華が果てしないものであっても、エッサイの株はダビデなのであり、その系図を通じて平和の王と言われるイエス・キリストがお生まれになるのである。「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」と主なる神は言われる。これは、ソロモンのような単独の卓越した賢者ではなく、ダビデのような庶民的で、民と共に跳ね踊る王、多くの勇士に取り囲まれる王、神にのみ栄光を帰す王なのである。

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