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2007/09/29

待たされること

イザヤ書 第10章

 神は、ご自分に従わず、この世のむなしい権力に望みをかけるユダの王アハズに対して、まさに彼が頼みとしていたアッシリアを敵として臨ませられた。しかしそれと同時に、イザヤを通してユダに呼びかけられる、「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。たとえ、エジプトがしたように彼らがあなたを鞭で打ち、杖を振り上げても。やがて、わたしの憤りの尽きるときが来る」と。
 神がアッシリアによりユダを懲らしめられるのは、彼らを滅ぼされるのが目的ではなく、彼らが自分たちの背信の結果として招き寄せた災いにより悔い改めて、彼らの主なる神のもとへ戻ることを期待しておられるのである。そして、彼らがそのように神の前にへりくだるとき、神の怒りは徐々におさまり、ついにその怒りは、彼ら神の民の敵に向けられるようになると言われる。
 「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」とパウロは言っている。
 ダビデは、かつてサウルの元で功績を上げ、忠実に仕えたにもかかわらず、サウルから追われる身となった。そして、何度かサウルを打ち負かす機会もあったが、彼をイスラエルの王として敬い、手を掛けることを恐れた。ダビデが恐れていたのは、サウルではなく神だったのである。彼は、王になるにふさわしい功績を上げ、ふさわしいリーダシップを持っていたが、長い間待たねばならなかった。神は愛する者を、ときには長い間待たされることがある。また、愛するものを試練に遭わせられる。このサムエル記下に書かれていることは、神がいまイザヤを通して、「アッシリアを恐れるな」と呼びかけられていることなのである。それは、それを体験する者が、それによりさらに深く神の御心を知ることを許され、神のために多く働くことができるようになるためである。
 神は、イスラエルを待たせられる。それは、イスラエルの罪によるのだが、それだけではない。神は、時を定め、「その日」というときに、彼らに救い主を遣わされる。そのことを天地創造以前、いにしえの昔から決めておられたのである。

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