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2007/09/27

威光、尊厳、栄誉

イザヤ書 第9章

 もうお気づきかもしれないが、イザヤ書全66章は、旧新約聖書全66巻に対応しているという考えを私も支持している。広大なイザヤ書を読むときに、ただ漠然と最初から読んでいたのでは、その広大な宇宙を漂う放浪者となってしまう。イザヤに預言を与えられた神は、これだけの大系を脈絡もなく流れ出るままに任せられたのではないだろう。イエス・キリストの後の世代に向けてイザヤに預言を語らせられた神は、この預言の書を読み解く背景として、人類の歴史すなわち旧新訳聖書を想定されたのだと思う。つまり、イザヤ書を理解するためには、旧新訳聖書からの達観が必要であり、また旧新訳聖書を理解するためにも、イザヤ書に啓示された知識が必要なのである。そして、これはまさに4福音書記者やパウロ等が新訳聖書において行っていることなのである。
 そのように、イザヤ書第8章の最後には、ルツ記の最後にダビデの系図が記されてあることを思い出させるように、この大いなる恵みの表れについての言及がある。それはシンプルなものであるが、そこからは、万軍の主の壮大なご計画と御想いの賢さ、哀れみの深さが燦然と輝き出でている。続くサムエル記一は、本章にあたり、ここには、イスラエルの民が神からはなれ、この世的な力や権威に望みを置き始め、その結果、長老や尊敬される者、預言者たちも空しい存在となり果ててしまったことが述べられている。
 しかし神は、そのような邪な考えによって民が願い求めたイスラエルの王を通しても、ご自身の威光と尊厳、栄誉、愛と哀れみを力強く啓示されたのだった。それゆえキリストはダビデの子と言われ、旧約聖書を読む現代人の私たちがそこから、あふれるほどに燦然と輝く万軍の主の栄光を心に写され、死に至るまでの献身の決意と、神の御心に叶う者、すなわち、キリストの御姿に日々変えられて行くことができるという確信を持つことを許されるのである。

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預言の封印

イザヤ書 第8章

 神はイザヤに言われた、「大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・ハズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい」と。イザヤは、自分のしたことを公にするために、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカルヤに証人になってもらった。
 その後、イザヤが二人目の子をもうけると、神はイザヤに言われた、「この子にマヘル・シャラル・ハシュ・ハズという名を付けなさい。この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、ダマスコからはその富が、サマリアからはその戦利品が、アッシリアの王の前に運び去られる」。それは丁度、イザヤの一人目の子シェアル・ヤシュブが災いを退け、幸いを選ぶことを知ろうとする年頃のことでもあった。
 それから神はイザヤに、アッシリアの来襲を予告された。このイスラエルの地に、その遥か未来にメシアの支配する時がやってくる。彼は、イザヤの預言通りにこの地に生まれ、この地を支配する。この地とこの民は、インマヌエルなるイエス・キリストのものである。そして、彼は永遠に支配する。しかし、その前にまずこの地は、その罪のゆえに、他民族に踏みにじられねばならない。しかしそれは、彼らを完全に滅ぼすことはなく、また限りなく続くのでもない。イスラエルを守る者は、常にインマヌエルなるお方と共にあり、眠ることもまどろむこともないからである。
 しかし、そのように神によって特別に守られていることをイスラエルは知らない。彼らの実体は、神を知らぬ異邦の民たちと同じである。彼らは、神に従う道から迷い出て、神を知る知識は空しくなり、その心は頑なになった。もはやこのままでは、どのような教えも教訓も、彼らには無意味である。イザヤは、一度は公にしようとして語った預言の言葉を、自ら封じることを決意した。
 しかし彼は、神が彼に与えられた預言の言葉によって、神に対する望みを強く持ち続けた。彼は、ルツが姑ナオミにどこまでも従ったように、彼がどのような境遇に置かれようとも、神の言葉に望みをおき、どこまでも神につき従ったのであり、そのようにして、イザヤの預言は、イエス・キリスト以後の人に向けて、語り続けられたのであった。

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