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2007/09/23

召命

イザヤ書 第6章

 ユダ王国は、ウジヤ王のときに非常な繁栄を見た。彼が神に聞き従い、その戒めを守り行い、民を正しく導いたからであった。ウジヤは、神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで及んだ。
 歴史は、果てしなく永く続くように見える。しかし、それは一人の人の人生が全うされるのを待っているのだ。聖書の全体は、一人の人の人生を表している。天地創造から約束の地の獲得まで、それは一人の人の人生を表している。また、もっと大きい流れとしては、創世記から黙示録までの全体が、一人の人が生まれてから主イエスにめぐり合い、そして全うされて死ぬまでを表している。
 ウジヤ王の生涯は、神に従う人の人生が、いかに多くの良い実を結び、奇跡に取り囲まれ、いかに神の祝福に満ちたものであるかを実証するはずのものであった。しかし、彼はその人生の終わりに、それまでの成功に思い上がり、神の祭壇の上で香をたこうとした。それにより彼は、神の裁きをその身に受けざるを得なかった。彼は、約束の地を目の前に、民を導く尊い勤めから退かなければならなかったのであり、またそれは、彼自身の人生においてもそうであったのである。彼は実に、あの神の人モーセのように、約束の地、すなわち神に従う者のすばらしい人生の終わりを目前にしながら、モーセのように一抹の高慢に陥り、神の栄光を表すことを怠り、それにより聖なる務め(人の人生はみな、神から授かった人生を聖く全うするという聖なる務めである)から退かなければならなかったのであった。もし彼が、自分の人生を全うしていたら、私はきっと何事かが起こったと思う。そう、この永い歴史の中で、たった一人でも、その人生を神に従って、全うすることができたら、この永い歴史は終わりを告げるのではないかと私は思う。そしてそれは、今から約2000年前に起こった。そこで人類の歴史は、180度変わってしまったのだった。
 ウジヤ王は、神の人モーセのように、約束の地を目の前にして、その勤めから退いた。そして、彼が死んだ年に、一人の人が神によって立てられた。それはまるで、あのモーセの後継者ヨシュアのようだ。その意味は「神は救い」。神はイザヤを召し、その唇を火で聖め、イスラエル民族を約束の地に導く後継者とされた。しかしその方法は、それまでの、すなわち彼以前の方法とはかなり異なっていた。
 神は彼イザヤに命じられた、「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るなと。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」。
 イザヤが語ることは、人の人生に向けて語られているのだ。それは、聖書66巻のすべてを包含している。神の天地創造と後の日、そして来るべき日の、宇宙的なご計画のすべてを包含している。それが人の人生の重みなのである。それゆえ、彼らはそれを悟ることができない。イエス・キリストを知らない者は、イザヤの語ることを理解することができない。イエス・キリストが来られた後の人だけがそれを悟ることができる。イザヤがイエス・キリストのことを預言したということを。

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