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2007/09/22

愛の歌

イザヤ書 第5章

 イザヤは、愛する神のために、このぶどう畑の歌を歌った。そして、彼は言う。これは、「愛の歌」だと。それは、彼の神への愛、そして、神のイスラエルへの愛を歌にしたものである。
 「わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。・・・・イスラエルの家は、万軍の主のぶどう畑。」ああしかし、それは良い実を結ばず、酸っぱいぶどうを実らせた。
 神は、そのぶどう畑の真ん中に見張りの塔を立て、鳥や野獣からぶどうを見守り、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待っておられたのに。主が楽しんで植えられたユダの人々、主は、彼らが正しく歩み、良い行いの実を結ぶのを待ち、あふれるばかりの祝福を彼らに注ごうと待っておられたのに。
 しかし、彼らの堕落ゆえに、神はもはや彼らを祝福することがおできにならない。神は正しいお方であるゆえに、神は彼らに祝福に代えて呪いを与えなければならなくなってしまわれた。それは、あの神の人モーセが、申命記の告別説教の中で、イスラエルのために警告した「祝福と呪い」のことである。しかしそれでも彼らは、神がすぐに裁きを行わず、それを遅らせておられるのを見て、「イスラエルの聖なる方を急がせよ、早く事を起こさせよ、それを見せてもらおう。その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。そうすれば納得しよう」と言っていた。そこで神は、延ばしておられた裁きを実施しなければならなかった。そして、それでも彼らが悔い改めないので、今度は遠くの民に合図し、イスラエルを裁くために、地の果てから彼らを呼び寄せられる。かつてダビデは、預言者ガドから3つの罰を示されたとき、「主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない」と言った。しかし今、遠い国からやってくるのは、冷酷な民、疲れることを知らず、慈悲も哀れみもない民である。神は、彼らにイスラエルをまかせようとされた。
 祝福と呪い、それはいつも対にして提示される。私たちの神は、妬む神である。妬む愛の神、イスラエルを妬むほどの愛で、妥協の無い永遠の愛で、愛し慕っておられるお方なのである。

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