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2007/09/13

叫び

ヨブ記 第21章

 ヨブには、ナアマ人ツォファルの言うことが信じられなかった。彼がどのような経験の結果としてそのように語ることができるのかということを。というのは、少なくともヨブ自身の人生の経験だけを見ても、そのような結論が出ないことは明らかだったからである。ヨブは、神に逆らう罪人が、その人生の全期間を通して、のうのうと安らかに暮らすのを見て来た。少なくとも幸福感という観点からは、彼らの人生は、神に従う敬虔な人の人生と変わることはない。そして、彼らの人生の終わりもまたそうなのである。もし変わることがあるとすれば、死後においてなのであるが、それは誰にも分からないのである。
 ヨブは、人生にはそのような不条理が起こり得るということを認める勇気を持っていた。だから彼は、いま自分の身に降り懸かっている不幸を基本的には冷静に捉え、そういうこともあると認めるのである。しかし彼は、この一点に関しては決して譲らない。それは、彼には責められるべきことはなく、そのように非のない彼を、神が不幸に陥れておられるということである。そして再び、ヨブにとっては、そのようなことも十分に起こり得ることではあるのである。
 そこで、ヨブの主張は、倫理や理論を越えたところにあるのであり、神への挑戦なのである。しかしその挑戦は、己の立場をわきまえない高慢なものではなく、人から神への有り得べきぎりぎりの問題提起なのである。彼の主張はこうである。すなわち、「神様、あなたが罪のない私をこのような不幸に陥れられるということはあり得ることであり、もちろんあなたには、その権利があります。しかし、もしここに罪のまったくない、原罪も持たない一人の人間がいたとします。その人は、あなたに対してどう言われるでしょうか」ということである。
 ヨブは、確信していた。その人が神に対して何も言わないということはあり得ないということを。そして、その罪の無い方は、現実に歴史の中で人となり、実際に不幸に陥れられ、そして神に向かって叫んだのだった、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と。

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投影

ヨブ記 第20章

 ナアマ人ツォファルがヨブに異議を唱えた。彼には、ヨブの語る言葉が彼への非難に聞こえたのだった。
 彼は、自分の人生で育んできた独自の人生観を持っていた。それは、神に逆らう者の喜びははかなく、その栄えが長く続くことはないというものである。彼はその人生観をたぶん彼の尊敬する人から学んだか、権威ある書物で読んだのだろう。しかし、彼はたぶん自分の人生でそれを詳細に確認するまでには至っていなかったのだろう。ただ彼の経験の範囲では、神に従順で敬虔な人間だけが幸福になり、神に逆らう人は栄えることはないということは真理であった。彼の考えによると、すべての人はこの黄金律に従って人生を生きるのであり、神が存在する限り、この法則からはずれる人は存在しない。たとえ一時期悪人が栄え、幸福になることがあったとしても、神がいつまでもそのような状態を放置されることはなく、しばらくの後には、彼の幸福と富は、すみやかに彼からうばい取られ、正しい人に分け与えられるはずなのである。
 このような彼の人生観は、今まで彼自身にとっては真理であった。しかしそれには、一つの前提があった。それは、彼自身が幸福であるという条件である。というのは、彼はまだ本気になって人生というものを考えたことがなかったからだ。
 このナアマ人ツォファルのような人に、もし不幸が襲ってきたなら、彼は速やかに絶望の縁に沈むに違いない。なぜなら、彼の人生観にあっては、そのようなことは、起こるはずがないことだからである。すなわち、彼の黄金律は、彼の経験する不幸により、いとも簡単に崩れ去ってしまうようなものなのである。そして実は、彼自身がそのことをもっとも恐れていることに彼は気づいていないのである。しかし彼の良心は、それに気づき始めており、それを嫌悪しているのである。そこで、彼の心はその悪しき事態を自分の友であるヨブに投影してヨブを罪ある者と見なし、罪人のヨブが自分の潔白を確信を持って主張するのを自分に投影して、ヨブの言葉を自分への非難と受け取るのである。

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