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2007/09/12

切り株

列王記下 第25章

 バビロンの王ネブカドネツァルは、捕囚として連れ去ったヨヤキンの代わりに、その叔父マッタンヤをゼデキヤと改名してユダを治めさせた。神は、ご自身の名をもって呼ばれるこの都を守るために、御使いを遣わしてイスラエルに、神の前に遜ってこのバビロンの支配に服するように再三説得をされた。また、バビロンの王もゼデキヤに服従を誓わせたのだったが、彼は神に立ち帰らず、後に心を頑なにして、返って反逆に転じた。そこで、彼の治世第9年にネブカドネツァルは、全軍を率いて再びエルサレムに攻めてきた。彼は都を包囲し、その周りに塁を築いた。都の城壁は堅固であったが、ついに内部の食料が尽き、王と戦士たちはカルデヤ人が包囲する中、夜中に門から逃げ出した。カルデヤ軍は王の後を追い、エリコの荒れ地で追いつき、軍隊は散りじりにされ、王は捕らえられた。その後、都エルサレムでは、主の神殿、王宮を含め、すべての建物が焼き払われ、城壁は取り壊され、民衆も貧しい民の一部を除いて、捕囚とされてバビロンへ連れ去られた。
 バビロンの王ネブカドネツァルは、残された民の上に、シャファンの孫でアヒカムの子であるゲダルヤを総督として立て、ユダの地を治めさせた。しかしその後、彼は王族の一人とその一味に暗殺されてしまった。そのとき彼らは、共にいたカルデヤ人をも殺したので、復讐を恐れた民たちはエジプトに逃れようと自らエルサレムを出て行った。こうして捕囚を免れてユダに残っていた人々も、ついに自分の土地を追われて流浪の民となってしまったのだった。
 イスラエル民族は、神から見捨てられ、ついにすべてを無くしてしまった。持ち物や住む家、祖国、そして言語を含む文化のすべてが失われてしまったのである。彼らは、何のために神に選ばれたのか。神が裁きのために立てられた器ネブカドネツァルにまで反抗して、自ら破滅するとは。彼らは、理性のない民であり、他の民族と比べて、別段に取り柄があるわけではなかったのか。いま、彼らはひどく打ち砕かれて、もはやどのようにも立ち直ることはできないように見える。
 ああしかし、今は地の塵に等しいような彼らイスラエル民族に残された切り株に、やがて緑の芽が生え出でる。なぜそのようなことが起こるのか。その要因は、実は彼らイスラエル民族の弱さであり、主体性の無さであり、貪欲さであり、協調性のなさであり、その他いろいろなものなのである。そうとしか考えられないし、それ以外には原因は想定できない。しかし百歩譲って、もしそうなら、それを一言で言えば、『神にすべての栄光が帰されるため』なのだろう。そう、それゆえに彼らは、神から選ばれた聖なる民族なのであり、その神の命によって歴史の中に再び芽を吹き、死んでいた言葉、発音さえ完全に忘れ去られた彼らの国語が実際に復活し、第二次大戦後に、神によって世界から一人一人呼び集められ、幻のイスラエル国家が復興するのである。

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信仰の冬

列王記下 第24章

 名王ヨシヤが戦死し、その後を次いだ息子のヨアハズは、先祖たちのように主の目に悪とされることをことごとく行った。ヨシヤを打ち破ったエジプトの王ネコは、ヨアハズをハマトの地リブラに幽閉し、その代わりにヨシヤのもう一人の子エルヤキムの名をヨヤキムと改名させてユダを治めさせた。ヨアハズはその後、エジプトへ連れて行かれ、そこで死んだ。
 ヨヤキムの治世に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上ってきて、ユダを支配下に入れた。彼は、主がユダを裁くために特別に起こされた器であった。神はユダに預言者を送り、繰り返しご自分の民に、神の前に遜り、この裁きの器に服するように説得された。それは、これまでのイスラエルの歴史の中で積み上げられてきた神の憤りを鎮めるためには、その方法と共に相応の時間が必要だったからである。というのも、神と人との関係は、双方向のものであり、神の方が一方的に民の罪を赦すだけでは、関係の回復は実現しない。むしろ民の方にこそ、罪の認識と真の悔い改めが必要なのであり、それによらずには、神から差し出された赦しを受け取ることもできないのだ。したがって、ここで神が設定された喪の期間を経ずしては、イスラエルに真の悔い改めがもたらされることもなく、彼らが神に立ち帰ることも不可能だったのである。
 ヨヤキムは三年間バビロンの王ネブカドネツァルに服従したが、その後、彼の心は返って頑なになり反逆を始めた。神は、ユダを滅ぼすために、カルデヤ人、アラム人、モアブ人、アンモン人の部隊を差し向けられた。それは、マナセの行ったすべての罪のためでもあり、主はそれを赦そうとはされなかった。
 ヨヤキムは、十一年ユダを治めて、その子ヨヤキンに王位を譲った。しかし彼も神の前に悪を行い続け、ついにバビロンの王ネブカドネツァルにエルサレムを占領されるに至った。ネブカドネツァルは、神の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ。彼は、ヨヤキン王と共に、エルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚としてバビロンに連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。
 神は、このようにイスラエルからすべてを取り上げられた。かつての歴代の王の栄華は、このとき跡形もなく消え去り、神はご自分の民を御前から投げ捨てられたのであった。しかし、神がイスラエルから奪い去られた最大のものは礼拝である。彼らには、もはや礼拝を捧げるための場所もなく、祭具もなく、祭司もいない。彼ら自身も遠い異境の地に連れ去られて来てしまい、エルサレムの方角さえ分からなってしまった。そのような中で、彼らには70年という気の遠くなるような捕囚の時が課されるのである。それは、祭儀が一切行われない暗黒の時であった。しかし、それは神が、彼らに本当の礼拝、心の中の神殿、神が律法を書き込まれる魂の育成を目指した、信仰の春を待つ期間だったのだろう。

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