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2007/09/08

献身と勝利

列王記下 第23章

 ヨシヤ王は、ユダとエルサレムのすべての長老を自分のもとに集め、彼らと共に神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた。それから王は、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されている契約の言葉を実行することを民と共に神の前に誓った。ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した。こうして彼は、祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した。彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にも彼の後にもいなかった。しかし、彼の祖父マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がったご自身の激しい怒りの炎を収めようとはなさらなかった。主は言われた、「わたしはイスラエルを退けたようにユダもわたしの前から退け、わたしが選んだこの都エルサレムも、わたしの名を置くと言ったこの神殿もわたしは忌み嫌う」。
 ヨシヤは、彼にできるすべての良いことを実行した。しかし、それでも神は燃える怒りを静めようとをされなかった。ヨシヤはその後、エジプトから攻めてきた王ネコと戦い、戦死してしまう。彼は、その成したすべての良き業の報いを受けることがなかった。彼の成した良き業は、神の前にすべて忘れ去られてしまったのだろうか。
 いやそうではないだろう。ヨシヤは、確かに良き業を多く行った。しかし、それによって彼が神から義とされることはできない。神の基準は、限りなく高く、人には遥かに届かないところにあるのだ。それに到達するためには、主イエスを信じ受け入れる以外にない。彼だけが、神に義とされた人であり、神は彼を信じる者をも彼ゆえに義と認めてくださるのだ。
 イスラエル中にすべての善きことを成し遂げたヨシヤは、さらに神に良しとされることを探し求めた。彼は、エジプトからアッシリアに向かうエジプト王ネコを見つけ、戦いを挑んだ。彼は、次に行うことは、敵を打ち破って誉を得ることだと思ったのだろう。しかしそれは今は神の御心ではなかった。彼は、歴代の王が敵を打ち破って誉を得たことを知っていた。そして、すべての良いことを成し遂げた今、神は自分の前にすべての敵を打ち破って下さると思った。しかし、神はイスラエルに対する燃える怒りを静められていなかった。彼は、神が自分と共におられると錯覚し、強大な敵に戦いを挑んでしまったのだった。私たちは、このことを良く認識する必要がある。つまり、ダビデや歴代の勇士たちが敵と戦い、神が彼らの前にすべての敵を打ち破られたのは、ただただ、それが神のご計画であったということである。私たちも今、神に心から従い、この町を、市を、県を、国を主のために勝ち取りたいと願っている。しかし、私たちはまず、神のご計画を心に示していただくことが必要なのだ。それなくしては、どのような献身をもってしても、この日本を主のために勝ち取ることはできないのだ。

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永遠の決断

列王記下 第22章

 ヒゼキヤの孫アモンの治世は2年しか続かなかった。彼は、家臣たちの謀反によって殺されてしまった。しかしユダの国民がその家臣たちを制圧し、アモンの8歳の子ヨシヤをユダの王とした。彼は、主の目にかなう正しいことを行い、右にも左にもそれなかった。ヨシヤは、書記官シャファンにより大祭司ヒルキヤに、神殿に納められる献金により、主の神殿の修理をきちんと行うように命じた。
 そのとき大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、「わたしは主の神殿で律法の書を見つけました」といった。ヒルキヤがその書をシャファンに渡し、シャファンは王のもとに来て報告し、王の前でそれを読み上げた。王はその律法の書の言葉を聞くと、衣を裂いて言った、「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ」。祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤが女預言者フルダのもとに行き、御旨を尋ねると、主は彼らの罪のゆえに、その律法の書に書かれている災いを下されると告げられた。しかしヨシヤについては、自分たちの罪のために心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、泣いたので、主はその願いを聞きいれ、ヨシヤの尊命中は、災いが下されることはないと言われた。
 ヨシヤは、神の恐ろしい怒りが下らない先に、自分たちの罪の深さ、恐ろしさを悟ったのであった。書記官シャファンは、祭司ヒルキヤが神殿で見つけた律法の書を自ら読んだが、それは自分とは関係の無いものであるように思った。しかしその同じ書がヨシヤの前で読み上げられたとき、彼にはそれが恐ろしいものであることが分かった。今日でも、聖書が読まれるときに、もしその人が、ヨシヤのように神を畏れる人ならば、その人は、聖書の言葉に驚愕することだろう。
 神は、ヨシヤが御前にへりくだったのをご覧になり、彼がまだ良いことをしないうちに、彼の願いを聞かれたのであった。神は、今日でも、御前にへりくだる者の願いを聞かれるのである。そして、その者がまだ主に従順に歩まない先に、彼を祝福し、彼を助けることを始められるのである。それは、神が全能であり、すべての人の心の奥にあることを知っておられるからである。
 「神は、人と時を同等に造られたゆえに、人は未来を知ることができない」とソロモンは語った。しかし神は、人が御前にどのように生きるかを前もって知っておられる。神は、時を越えておられるからである。それでは、人は神の前に無力であり、ただ運命に従って生き、死ぬしかないのか。人の人生は、ただ神の裁きの内に生かされあるいは滅ぼされるしかないのか。そうではない。人は、神の前に永遠の決断をすることができる。神に対して、永遠の従順を約束することができるのである。それがヨシヤの行ったことである。それゆえ神は、彼がその良いことを行う前に、彼に祝福を約束されたのであった。

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