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2007/09/07

罪の開花

列王記下 第21章

 ヒゼキヤの子マナセは、神の前に甚だしい悪を行った。彼は、異境の神を崇拝し、それらに犠牲を捧げるための祭壇を神殿の庭にさえも築いた。また、天の万象の前にひれ伏し、これに仕え、自分の子に火の中を通らせたり、占い、まじない、口寄せ、霊媒等、神の目に悪とされることをことごとく行った。
 それにしても、エルサレムに改革を行い、真の神への礼拝を復興させたヒゼキヤ王自身の子が、このように父とは似ても似つかない信仰と行いを身につけてしまうというようなことが、どうして起こり得たのだろうか。それは、ヒゼキヤの信仰が、個人主義の信仰だったからだろう。ヒゼキヤにとって、真の神を礼拝することは、自発的に行うべきことであった。彼は、もちろんエルサレムに力強い改革を行った。しかしそれは、あくまで人々の自発的な信仰の喚起を目指したものだったのである。
 信仰は、もちろん各人が自発的に捧げるべきものである。しかし、それは成熟した信仰者にこそ適用されるべきであろう。真の神と異境の神の区別もつかない者に、「あなたの意志で、どちらかの神を選びなさい」と言うのは、彼の自由意志を尊重しているのではなく、むしろ彼に最大限に迷いの機会を与えているに過ぎない。ヒゼキヤは、その子に対して、そのように振る舞い、我が子をそのように教育してきたので、その子は、生まれながらの悪しき本性に従って、そのようになったのであった。
 ああ今日でも、自分の子供に、「日曜日に教会に行くべきかどうか、自分の心で良く考えて決めなさい」と言う親がいる。そのような親は、また日常のすべてのことにおいてそうなのである。勉強をするのも、良いことをするのも、規則に従うかどうかも、また、人間として神から与えられた自分の人生をどのように生きるかということまでも。最後には、自分の人生を生き続けるかどうかさえ、彼自身の判断によるとまで断言するようになる。そんなことが果たして真理なのだろうか。
 否、否、決してそうではない。むしろ彼が、そのように自分の子や他人に対して寛大で、彼らの自由意志を極限まで尊重しようとするのは、実は、自分が神に完全に従っていないことによるのである。つまり、自分が神に従うかどうかは、自分の自由意志によると思っているのである。すなわち彼は、いつも神への反逆の可能性を自分の中に確保しておきたいのである。だからは、彼はいつか、その自分の中のその可能性の通りになるであろう。
 ヒゼキヤ王は、いつもこの反逆の可能性に脅かされていた。そして、神に責められたときに、かろうじてその可能性から開放されて、再び神の元に立ち返ることができた。しかし、彼の本心はまったく変わらなかったのであった。そして、それは、彼の子のマナセと孫のアモンにおいて、みごとに開花することになったのである。

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