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2007/08/05

小さな試練

列王記上 第20章

 イスラエルの王アハブほど、神の前に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼はその妻イゼベルに唆されたのであった。そして彼は、妻に対してだけでなく、すべてにおいてそのようであった。彼は、神とこの世を比べて、この世を選んだのであり、それは初代のイスラエル王ヤロブアムの犯した罪であり、偶像崇拝である。彼アハブは、罪深い者すべてを代表している。罪深い者とはどのような者か、それは、アハブのように神の前にいい加減で、この世に対してはっきりした行動をせず、自分に対しても神の前にはっきりした態度をとらない者である。そして、彼アハブには、そのことのどこが悪いのか分からなかったのであった。このアハブ王が犯し続けた罪、それは実は、私たちの中にもある「いい加減な信仰」なのである。私たちは、このことを聖書から自分のこととして読み取り、戦慄のうちに神の前に悔い改める必要があるのではないだろうか。
 神は、そのように熱くもなく冷たくもないアハブ王の元に、アラムの王ベン・ハダドから使者を遣わされ、彼を脅迫させられた。アハブ王は、その脅迫の真の意味を理解しなかった。彼は、すべてを自分に対するものと理解した。しかし彼は、イスラエルの王なのであり、彼の王権もイスラエルの民も国土も財産も、彼のものではなかったのである。しかし、アラムの王からの使者が再び来て、彼の家臣の財産まで奪うつもりであることを告げたとき、アハブは初めて不安になり、家臣たちに相談し、その意見を入れて、アラム王からの使者に拒否の応答をした。そのような対応を見て私たちが彼を「ちょっとばかりお人よしな王」くらいにしか思わないとしたら、それはすでに私たちの感覚、倫理観が神の前に曇らされてしまっているのである。ああ、今日でも、自分に与えられた財産や地位、妻、子供たちを自分の物のように思い、その環境の中で、まだ大丈夫と安穏と振舞っている信仰者がいるならば、彼は、このイスラエルの王アハブと同じなのである。
 アラムの王が大群を率いてアハブに宣戦布告したとき、見よ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう言われる。『この大群のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」しかしアハブには、それは神の預言者の言葉ではなく、友だちの気の効いた忠告くらいにしか思われず、「誰を用いてそうなさるのか」と聞き返した。預言者は、これはアラムが神の民イスラエルに対して戦いを挑んでいるのであり、全イスラエルの戦いであることを告げると、彼はさらに「誰が戦いを始めるのか」と聞き返した。これはまさに、今日の生ぬるい信仰者、自分が主イエスの軍隊に属していることを忘れている信仰者の姿である。
 神は、イスラエルの前に海の砂のような多数のアラム軍を二度に渡って打ち破られた。しかしそれでもアハブ王は、そのことの真の意味を理解しなかった。先にアハブのところに遣わされた預言者が仲間の一人に、主の言葉に従って「わたしを打て」と命じたが、その仲間の預言者もアハブ王のような生ぬるい信仰を持っていて、神の言葉に聞き従わなかったので、獅子に出会い、殺されてしまった。彼はもう一人の預言者に「わたしを打て」と言ったところこの隣人は彼を打って傷を負わせた。このようなやり取りを私たちはなにか狂信者たちの喧嘩であるかのように受け取ってしまうかもしれない。しかし、ここで聖書が言っているのは、私たちに熱いか冷たいかであって欲しいということ。そして、もし私たちがアハブのように生温い信仰を持っているなら、万軍の主イエスは、私たちをその口から吐き出されるだろうということなのである。そして、神は主イエス・キリストの購いに免じて、このときのアハブに対するように、生温い私たちを時に寛大に扱われるが、また様々なことを通して、私たちを奮起させるために、私たちの心を乱されるような出来事をも起こされるのである。
 イスラエルの王は、預言者の言葉に機嫌を損ね、腹をたてて王宮に向かい、サマリアに帰って行った。

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