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2007/08/22

原始福音

ヨブ記 第9章

 ヨブは、シュア人ビルダドの信仰がある程度正しいことを認める。神に従う者に神は報いてくださる。しかし、それがすべてではないと主張する。すなわち、神には正しい人に苦難を与える権威もあり、それゆえ、そのようなことも起こり得るというのである。そして、不幸にもそのようなことが起こった場合、人にはもうなすすべがない。彼は、神の取り扱いを甘んじて受けるのみであり、それが造られたものの宿命である。
 しかし、もし本当にそうなら、人には望みなど無いのではないか。ある日突然に、神から災いが来て、彼のそれまでの労苦、実直な人生で築き上げてきたすべてのものが一瞬のうちに失われてしまうようなことが起こりえるとしたら、人はいったい何のために生きるのか。これがヨブ記を支配しているテーマである。そして、まさにヨブにそのことが起こったのである。そして、ヨブはそれに対して、異議を申し立てて言うのである、「わたしは正当に扱われていない」と。
 彼は、大胆にも言う、「このように、人間ともいえないような者だが、わたしはなお、あの方(神)に言い返したい。あの方と共に裁きの座に出ることができるなら、あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら、わたしの上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら。」この神と人との間に入って、調停をしてくれる者がいれば。
 しかし、たとえそのような者のがいたとしても、その者が神が間違っているとの判断を下すことができるであろうか。それはありえない。従ってその調停は、神の義を否定せず、それを成就する形でのヨブの人生の肯定でなければならない。これこそ、キリストを表しているのであり、イエス・キリストの救いの予表でもあるのだ。

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