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2007/08/23

はみ出し者

ヨブ記 第15章

 ヨブは、いわゆる、はみ出し者だとテマン人エリファズは言う。彼の語る言葉、そのとげとげしさがそれを表明していると言う。そのようにこの世界は、滑らかなものを好む。そしてエリファズは、この世の人である。彼は、この世界を差しさわりなく行きることが良いことと思っており、彼にとっては、平均からはみ出るものは好ましくなく、出る釘は打たれるという格言を大切にしている。そこで、彼が神を信じているのも、皆が信じているという理由からに他ならない。もし、彼の周りの大多数の人が、神を信じなくなったら、きっと彼も神を信じなくなるだろう。彼がまことしやかに、神の偉大さ、その権威、力、誉を讃美しようと、神の前に敬虔にひれ伏そうと、それは、皆がそうしているからに他ならない。
 ああ今日でも、神を信じているのが、たまたま自分の周りの人が信じているからという人がいる。たとえ日本のクリスチャンが0.2パーセントであっても、彼の周りには、その0.2パーセントが群がっている。そう、教会という狭い世界に足を踏み入れている彼にとっては、周りの皆がクリスチャンなのだから。そして、そこから決してはみ出して生きようとはしない。そして、なにか極端なことを言う者がいると、彼はその人の品格を疑ってかかる。しかし、本当に神に愛されたいと思ったら、その人は99匹のいる囲いを出て行かなければならない。そのように迷い出た羊をこそ、主は探し求められる。そう、99匹をそこに置き去りにして。歴史の中で神に特別に愛された人々の中に、一人でもはみ出し者でない人がいただろうか。アダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、サムエル、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、エリヤ、エリシャ、他、皆はみ出し者ではなかったのか。だから、もし神に特別に愛されたいと思うなら、その一番の近道は、ヨブのようにはみ出し者になることだ。そして、世界の歴史で、一番のはみ出し者とは、十字架に掛けられたイエス・キリストに他ならない。

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神の子の権利

ヨブ記 第14章

 自分の潔白をいかに主張したとしても、自分が神の前に義とされ得る存在ではないことをヨブは知っていた。アダムが罪を犯したゆえに、すでにすべての人は、神の前に罪人となり果てているのだから。そのように、根本が腐ってしまっている木が、どうして良い実を結ぶことがあり得ようか。そしてもしそうなら、そのような人間を、なぜ神はなおも責め苛まれるのか。しかも天地創造から現在にいたるまでである。しかし、もし神が本気でお怒りになるなら、すべてのものは、一瞬にして滅び去るであろう。そこで、いま存続を許されているのは、人が神の前に恵みを得ているのであり、その中でのみ人は、自分の罪を覆われて、神の前に義とされて生きることができるのだ。そして、ヨブはこの環境、すなわち神から与えられた律法の中で、一生懸命に、真剣に生きていたのであり、彼が己の潔白を主張するのは、あくまでその前提の中のことである。それはあたかも、子供が父親に対して異議を申し立てているのに似ている。彼は、自分の立場を暗黙の内にわきまえている。しかし彼はまた、ある意味で真剣に怒っているのであり、本気で議論しているのである。
 もし、そのように子供が本気になって意見を言えないような親子がいたら、それは良い親子関係とは言えないだろう。そのように人間関係は、時と場合によって多様であり得るのであり、またそうある必要があるのである。
 神と人の関係も、それと同様である。というのは、神は私たちの父であると教えられているし、実際にそうであるとともに、神は永遠の愛で私たちを愛しておられるからである。
 だから私たちは、主イエスが言われたように、確信をもって神に願い求めることができるのであり、それこそは、神を父として敬うことなのである。そして逆に、神の胸を借りて格闘することができないなら、その人は、神の子としての自覚が足りないと言えるだろう。

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御言葉の刃

ヨブ記 第13章

 ヨブは、激しい口調でナアマ人ツォファルに反論する、「神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り、欺いて語るのか。神に代わったつもりで論争するのか」と。
 聖書を愛読し、その中の敬愛する言葉をもって、友に対して「聖書にこのように書いてあるんだよ」と語る人に、ヨブは反論する。「それを友に向かって語るあなたは、その言葉を生きているのか」と。「私もその言葉を知っており、私もそれを敬愛している。しかし、私がそれを友に語らないのは、いま友が、まだその言葉を生きる段階にないことを知っているからだ」と。「その言葉を友に向かって語っているあなたが、もし今その言葉を生きているなら、それが分かるはずだ」と。
 ヨブにとって、人が何かを「知っている」ということは、それ自体、何物でもない。彼にとって「あるものを知る」とは、「それを生きる」ことを意味する。人が聖書の言葉を知っているとは、彼がそれを生きている、あるいは、少なくとも、それを自分なりに生きようとして、格闘していることを意味する。そして人は、聖書のことばを、たとえそれが小さな言葉であっても、それを自分なりに実際に生きようと試みたときに、その難しさや生きる上での課題を知るのである。しかし、もしクリスチャンが、聖書の言葉を、まず自分でそれに生きてみることをせずに、すなわち、聖書の言葉を自分の実生活に当てはめて、その言葉の主旨の通りに生きることを試みて見ずに、ただの聞きかじりや机上の理想的な考え、または、一時的な衝動等で、彼の友に聖書の言葉を推薦するようなことがあるなら、そのときは、彼がその友の心を傷つけてしまう危険性があると思う。ヨブがナアマ人ツォファルに対して反論しているのは、まさに彼がそのようにしてヨブの心を傷つけたからであった。

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