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2007/08/22

世界への回帰

ヨブ記 第12章

 今日でも、聖書をそのように読む輩がいる。聖書は初めから、むずかしく完全に理解などできない代物であるという確信を持つ人々がいる。それゆえ彼らは、字面ばかりをおっているだけで、聖書を真剣に読もうとしない。もし、聖書の内容に対して、そこに書かれていないことも含めて、誰かが断定的な意見を言おうものなら、彼らは血相を変えて、それを否定する。「聖書を軽々しく解釈するな」と。しかし、聖書とはそのようなものか。もっと人間の近くにあるものなのではないか。求める者には、聖霊が新しい知識を与えてくださるのではないか。
 ある人はまた、神を知ることは不可能であると言う。神について、誰か友達であるかのように語る者がいれば、その人は神を冒涜しているとか、ないがしろにしているとか、または華々しくは、うそをついているとかその他いろいろに決め付ける輩がいる。しかし、ヨブはここで、自分は、神に呼びかけて答えていただいたこともあると言っている。神は、答えられる神である。神は生きておられる神である。人間を愛を持って創造し、目的を持って導かれる神である。その目的は、不可解なものでな決してなく、神はそれを私たちに啓示されるのである。
 この世を生きることは、ヨブのように神を求めることだとヨブ記は教えている。聖書を読んでそれを参考に生きることではない。ヨブのように神に呼びかけて答えていただくことなのだ。もしあなたがまだ、聖書に語り掛けられ、神に答えていただいたことがないならば、あなたはヨブである。ヨブのように神と格闘する必要がある人なのである。

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不可知論者

ヨブ記 第11章

 ナアマ人ツォファルは話し始めた。彼は、不可知論者である。すわなち、物事の理は深く、人がそれを極め尽くすことはできない。まして、人は全能者である神と言い争うことはできない。だから、何かを確信を持って宣言するような者がいれば、彼はうそつきであり、まじめに人生を生きていない証拠であると彼は主張する。しかし、すべてを不可知とする者が、どのようにしてこの世界を真剣に生きることができるのか。この世界を不可知とするものは、それにより自分の人生を不可知としていることが分からないのだろうか。そして、華々しくは、最後に彼自身が不可知なものとなり果てるのである。ヨブの戦いは、この世界を取り戻す戦いである。ヨブがもしこの戦いに負けるようなことがあれば、私たちもきっと、この世界に回帰できないことになるだろう。

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絶望の苦しみ

ヨブ記 第10章

 ヨブは、神と本気で議論を始めようとしていた。それはほとんど、かつてヤコブが神と戦ったときのような様相である。しかし、あのとき、神はどうしてヤコブに勝利を譲られたのだろうか。ご自身が造られたものに負けられるとは。そこで、ヨブがこの議論に勝つとしたら、あのヤコブのようにしてであろう。
 ヨブの戦術は、徹底して神の前に自分を空しくすることであり、自分が創造された目的を問うものである。すべてのものは、神により、目的を持って創造された、これがヨブの確信である。だから、自分が造られたことにも必ず目的がある。神がこの自分を打ち砕かれようとするのは、自分の罪による以外にない。しかし、ヨブは神の前に自分の潔白を主張する。そこで、神がなぜヨブを打ち砕かれたのかは、不可解なまま残される。しかし、ヨブはその不可解な状況に耐えるべきではある。なぜなら、ヨブが今受けている苦難にも神の目的があるかも知れない、いやあるに違いないからである。しかし問題は、ヨブの今の状況が、彼に何一つ望みがない状況であることである。たとえ全財産が奪われても、そこから立ち直って充実した人生を歩むならば、それも神の栄光を現すことになるかもしれない。また、五体の一部が失われても、そのような条件下で神の栄光を現すならば、それも意味のあることかもしれない。しかし、今のヨブの状態は、どのようにしても神の栄光を現すことが不可能に思える状況なのである。彼に残された道は、ただひたすら我慢すること、こらえること意外にない。癒されて立ち直り、新たな歩みを始める可能性のない苦しみ、そのような苦しみの中にヨブはいるのである。というのも、彼が潔白である以上、どのようにすれば立ち直れるのか、見当がつかないからである。ヨブから見ると、神はただいたずらに彼を打ちのめされたように見えるのである。

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原始福音

ヨブ記 第9章

 ヨブは、シュア人ビルダドの信仰がある程度正しいことを認める。神に従う者に神は報いてくださる。しかし、それがすべてではないと主張する。すなわち、神には正しい人に苦難を与える権威もあり、それゆえ、そのようなことも起こり得るというのである。そして、不幸にもそのようなことが起こった場合、人にはもうなすすべがない。彼は、神の取り扱いを甘んじて受けるのみであり、それが造られたものの宿命である。
 しかし、もし本当にそうなら、人には望みなど無いのではないか。ある日突然に、神から災いが来て、彼のそれまでの労苦、実直な人生で築き上げてきたすべてのものが一瞬のうちに失われてしまうようなことが起こりえるとしたら、人はいったい何のために生きるのか。これがヨブ記を支配しているテーマである。そして、まさにヨブにそのことが起こったのである。そして、ヨブはそれに対して、異議を申し立てて言うのである、「わたしは正当に扱われていない」と。
 彼は、大胆にも言う、「このように、人間ともいえないような者だが、わたしはなお、あの方(神)に言い返したい。あの方と共に裁きの座に出ることができるなら、あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら、わたしの上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら。」この神と人との間に入って、調停をしてくれる者がいれば。
 しかし、たとえそのような者のがいたとしても、その者が神が間違っているとの判断を下すことができるであろうか。それはありえない。従ってその調停は、神の義を否定せず、それを成就する形でのヨブの人生の肯定でなければならない。これこそ、キリストを表しているのであり、イエス・キリストの救いの予表でもあるのだ。

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幸福の手段

ヨブ記 第8章

 今度は、シュア人ビルダドが話し始めた。彼の信仰は、神は正しい方であり、人を故なく苦しめられることはないということである。このことの裏を返せば、人が正しく生きている限りは、神はその人に災いを下すことをなさらない。だから、人は安心して人生を歩めることになる。しかし、もしある人に災いが降り懸かることがあるのなら、それは神から来た一つの裁きであり、その人が神の前に罪を犯した結果なのである。
 だから、人が人生で成功したければ、神を信じ、その戒めを忠実に守ることが必要なのであり、そうしていさいすれば、彼は良い成果を成し遂げることができる。神が彼の人生を御手により導き、彼を幸福で満たしてくださるのである。
 しかし、シュア人ビルダドの考えを突き詰めて行くと、人は、神がどのように人を取り扱われるか、そして華々しくは神がどのように考え、行動されるかを予めある程度知っていられることにならないだろうか。そして、神がまるで自分の幸福実現のための手段のようになってしまうということはないのだろうか。

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