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2007/08/21

苦悶

ヨブ記 第7章

 神は、何ゆえヨブを造られたのか。苦しみに遭わせられるためだったのか。そんなはずはない。神は、良いお方だからである。しかし、神にはまた、ご自身が造られたものに対する絶対の権威があることも事実である。それでは、神に造られたものは、生まれてから死ぬまで、一生兵役にあるようなものなのか。傭兵や奴隷のように、ただひたすら従順を強いられるだけなのか。ああ、しかしそれでは、愛とな何だろう。神の創造の意図は、愛ではなかったのか。それゆえ、神は人に自由意志を与えられたのではなかったのか。おお、それなら、わたしも口を閉じてはいられない。苦悶のゆえに語り、悩み嘆いて訴えよう。それが、愛により創造されたもののなすべきこと、成しても良いことなのではないのか。

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故のない苦難

ヨブ記 第6章

 ヨブの主張は、彼の苦難の原因が、彼の罪ではなく、神が故なく彼を苦しめておられるということであった。そして、彼はまた、それは神の自由であると認め、自分に残された道は、死以外にないと主張する。しかし、彼にはまた、自ら死ぬ権利もない。彼は、神に造られたものであり、滅び去るのにも神の許しが必要なのである。そこで、ヨブの望みは、神ご自身が彼の息の根を止めてくださることなのであり、それ以外に自分には救いはないのだと主張する。なぜなら、神は故なく彼を苦しめられるのであり、その苦痛があまりにも大きいからである。しかし、彼の苦しみを真に理解する人はいず、神もまた彼を助けることをなさらないのだ。

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エリファズの信仰

ヨブ記 第5章

 テマン人エリファズにとって、確かなことが一つあった。それは、ヨブが神と言い争っているということであり、神が間違っていることはあり得ないということであり、したがって、ヨブが間違っているに違いないということである。そして、ヨブの不利な点は、彼が造られたものであり、神は彼を造ったお方だということである。だから、人間が成せるただ一つの正しいことは、ひたすら神を正しいとし、神に頼り、神に助けを求め、神に願い、ひたすら待つということである、とエリファズは考えたのである。
 そして、エリファズの信仰は、神は正しい人を苦しみに遭わせるようなことはしない、ということである。ああ、しかしそれは、彼の高慢ではないのか。なぜなら、神は人を造られたお方だから、また人を苦しめる権威もあるのではないか。そして、ヨブの苦難がもしそのようなものであったとしたら。しかし、それはエリファズには、信じたくないことであった。

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反論

ヨブ記 第4章

 ヨブの語った言葉に対して、彼の友、テマン人エリファズが口を開いた。彼は、ヨブを尊敬していたし、彼の生き方に少なからず感銘を受けていた。彼にとって、ヨブの存在は、物事を正しく裁かれる神がおられることの証しであった。
 しかし今、そのヨブが恐ろしい苦痛にあえぎ、自分の生まれた日を呪い、生きる目的をさえ見失っている。ヨブのこの迷いは、そのまま彼エリファズの迷いにもなり得るのだ。というのは、ヨブに起こったことは、自分にも起こり得ることだからである。もしヨブが神の前に正しい人であり、それにも関わらず神がなおもヨブを打ち砕かれるとしたら、もはやこの地上で幸福になる望みは、自分にもないことになる。
 それゆえ、エリファズにとっては、神がやがてヨブを回復されるか、または、実はヨブが神に罪を犯していたということでなければならなかったのであり、そのどちらにしても、ヨブが泣き言を言うのは、好ましくなかったのである。

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議論の始まり

ヨブ記 第3章

 やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って言った、「わたしの生まれた日は消え失せよ・・・」。
 彼の心には、2つの疑問があった。まず、なぜそもそも、自分のような不幸な者が生まれて来たのかということ。次に、なぜ苦しむためだけに生きなければならないのか、ということである。
 そしてそれは、自分の存在に対する問題提起であると共に、また自分の創造者であるところの神への問題提起であった。しかし、ヨブの意図は、あくまで自分の存在を呪うことであり、神を呪うことではなかった。むしろ彼は、被造物の立場から、神と議論しようとしていたのである。

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ヨブの孤独

ヨブ記 第2章

 ヨブの苦難は、彼の財産、友、家族の損失だけでは終わらなかった。それは、彼の全身に及ぶ、ひどい皮膚病をもたらした。ヨブは、そのかゆみをこらえきれず、素焼きのかけらで体中をかきむしるほどの苦しみであった。ヨブの妻は言った、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」。ヨブは答えた、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
 いまや、ヨブの助け手であり伴侶であった彼の妻さえ、彼の気持ちが理解できなくなってしまった。もし彼女も彼と同じ病に犯されていたなら、あるいは彼女は、彼の伴侶であり続け得たかもしれない。しかし今となっては、あまりにも大きい彼の悲惨が、彼女をして、神の前にへりくだらせることを不可能にさせたのであり、そのことが再び、ヨブと彼女との間に超えることのできない溝を作ってしまっていたのである。
 ヨブと親しかった3人の友が、彼を慰めようと、それぞれの国からやってきたが、遠くからヨブを見て、それと見分けられないほどの変わりようであったため、彼らは嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵をまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を前に、話しかけることもできなかった。彼らは、そのようにして、ヨブの悲しみを自分の悲しみとし、彼の苦痛を自分の苦痛とするほどに彼を愛していた。しかし、彼の妻がそうであったように、彼らにしても、ヨブと同じになることはできなかった。そして、再びそのことが彼らの高慢を彼らに知らせることになるのである。そう、彼らが愛する友、ヨブのようになろうとしたことは、神の前に高慢であった。そして、それが不可能であることを彼らが実感したとき、それは、あきらめをもたらし、失望を生み、最後にはヨブに裁きをさえ宣告するのである。これが、人間の弱さであり、高慢であり、限界である。
 ああ、もし本当にヨブの苦しみを自分の苦しみとした人がいたなら、その人は、ヨブのそばに行き、ひざまづきヨブのために静かにただ一筋の涙を流すことだろう。それこそ、ラザロが苦しみの果てに、墓に葬られることを許され、ラザロの墓のそばで涙を流されたキリストの姿であり、今日、私たちの受ける苦難のそばに寄り添われるイエスの姿なのである。

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