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2007/08/17

失望

列王記下 第6章

 預言者の仲間たちがエリシャに、今住んでいる家は、一緒に住むには狭すぎるので、新しい家を造ろうと提案した。これによると、エリシャたちは集団生活をしていたようだ。そこはあるいは、預言者の道場のようなところだったのだろうか。もしそうなら、エリシャがそのようなところにいるのは、やはり奇妙と言わざるを得ない。なぜなら、彼はれっきとした使命を持った、プロのフルタイム預言者だったのだから。
 あるとき、イスラエルがアラムと戦っていたとき、エリシャは神の知識の言葉をイスラエルの王に与え、アラム軍の戦略を次々に空しいものにした。アラムの王は、家臣から預言者エリシャの存在を知らされ、軍の部隊を送ってエリシャを包囲した。しかし、イスラエルのために戦うエリシャを神の見えない軍隊が取り巻いていた。神は、エリシャの言葉の通りに実行され、アラム軍の目をくらまされたので、エリシャは彼らをイスラエルの本拠地へと導いた。彼らが気がつくと、イスラエルの陣営の只中にいた。当惑するアラム軍を撃ち殺そうと言うイスラエルの王に対して、自分の成した奇跡に有頂天になっていたエリシャは、彼らを歓迎し持て成してから安全に帰国させるよう指示した。しかし、後になってアラム軍は、強靭なベン・ハダド王に率いられて、再び攻めて来てサマリヤを包囲したのだった。そのころ猛威を奮っていた飢饉とも相まって、サマリヤは滅亡の危機に瀕した。
 なぜ、そのようなことになったのか。イスラエルには、預言者エリシャがいたのではなかったのか。彼は以前、エリコの水源を清め、ライ病人を清め、死んだ子供を生き返らせ、その他様々な奇跡を行って来たのではなかったか。その彼が、これまでサマリヤの飢饉については、なに一つ手を打っていないではないか。そもそも、このようにアラム軍に攻められることになるのなら、なぜあのとき彼らを無傷で、しかも食事まで与えて送り返すようなことをしたのか。イスラエルの王は憤慨し、エリシャを殺そうと部下たちを送った。

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預言者の人格

列王記下 第5章

 エリシャは、自分の預言者としての使命や、イメージ等について、自分なりに考えていたようだ。彼が最初にエリヤから召命を受けたとき、彼は十二くびきの牛を使って畑を耕しているところであった。その農民であった彼が、エリヤの外套を受け継ぎ、それをもってヨルダン川の水を分けた。その後、エリコの水源を清めた。あるときは、自分をばかにした子供たちを呪ったら、彼らは熊に殺されてしまった。
 そのように彼は、人が良い一方で高慢なところもあり、最初イスラエルの王ヨラムが訪ねてきたときには、最初は会おうともしなかった。しかし、アラムの王がイスラエルの王の元へ、ライ病人ナアマンを送ったときは、衣を裂いて当惑する王に、彼を自分のところへよこすようにと指示を与えている。ただ彼は、「イスラエルに預言者がいることを知るであろう」と言っており、やはり自分の力を示したかったようにも見える。しかし、人はみなそのようにして、神の前に自分の使命を自覚していくものなのだろう。これは実に不思議なことであり、私たちの主イエス・キリストにおいてもそうであったのだと思う。しかし、キリストには原罪がなかったので、そのような過程においても罪を犯すことはなかったのだ。いずれにしても、エリシャは迷いながらも次第に、自分がイスラエル全体の預言者として召されていることを自覚して行ったようだ。
 自分のところに来たナアマンに対して、エリシャはイスラエルの預言者にふさわしく対応した。彼は、従者ゲハジを通して、ヨルダン川に7度身を浸すことを指示しただけであった。ナアマンは最初憤慨して帰りかけたが、家来たちの勧めでエリシャの言ったことを実行したところ、彼の体は幼子の体のように清さを取り戻した。これにより、ナアマンはエリシャを讃えず、イスラエル以外に神がおられないことを知った。これこそが預言者の使命であり、エリシャはそのような預言者になるべきであったのだ。しかし、永年彼のもとで、その行動を見て育った従者のゲハジは、このたびのエリシャの行動を理解できなかった。それは、エリシャにとってはでき過ぎた行動であった。ゲハジは言った、「主は生きておられる。彼を追いかけて何かもらってこよう」。僕は、その主人に似るものである。このときのゲハジこそは、エリシャその人を一番良く表していたのだと思う。しかし、エリシャには神の知識の言葉が与えられていた。彼は、その賜物で、従者ゲハジの行動を察して、彼に対して厳しい処置を行った。これは、たぶんエリシャが自分の中で、一番嫌いなところをその従者の中に見てしまったゆえだと思う。ゲハジは、かつてナアマンが掛かっていた恐ろしいライ病に犯され、雪のように白くなってエリシャの前から立ち去った。

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賜物の誘惑

列王記下 第4章

 エリシャは、エリヤが天に上げられるとき、特別に願って、師の2倍の油注ぎを受け取ったと言われる。しかし、神から特別な力を与えられているということは、恵みでもあり、また誘惑でもあり得る。神から特別の祝福を与えられたアブラハムにしても、特別の力を与えられた神の人モーセにしても、ダビデにしても、同様にこの誘惑、すなわち自分は特別な存在であるという意識の前に屈してしまい、自ら誘惑に陥るということがあったようだ。エリシャにもたぶんそのような誘惑があったと思われる。
 彼の元に、預言者の仲間の妻が来て助けを求めた。彼女の夫が死に、債権者が彼女の子供二人を連れ去って奴隷にしようとしているという。エリシャは、「何をしてあげられるだろうか」と言い、彼女のために、壷から油を出す奇跡を行った。
 エリシャはまた、時々カルメル山にこもって修行をしていたようだ。神から大切な使命を受けていながら、まだ修行が必要だったのだろうか。そこへ行く途中、シュネムというところで、裕福な夫人の家に良く立ち寄った。エリシャは、いつも世話になっている手前、彼女になにかしてあげたかった。そして、神が彼に隠しておかれたこと、すなわち彼女に子供がいないことをゲハジから聞き出し、彼女に子供を授ける預言を与えた。果たして翌年、彼女に子供が生まれたのだが、その子はあるとき頭の病気で急死してしまった。エリヤがカルメル山にいることを知っていた彼女は、急いでろばに鞍を置いて、従者一人を伴って出かけた。エリシャは、子供が死んだことを知らなかった。そしてゲハジに自分の杖を持たせて子供を癒させようとしたが、それは無駄であった。女は母親の執念でエリシャを連れ戻り、子供のために祈ってもらい、子供は息を吹き返した。その後エリシャが、本来の住まいギルガルに帰ってみると、その地は飢饉に見舞われていた。彼は、飢饉のために祈ることはせず、預言者の仲間たちに鍋を振舞ったり、一人の男が持ってきた初物のパンを神の力で増やし、百人ほどの人に分けて食べさせただけであった。
 これら一連のエリシャの行動を見るとき、彼がエリヤ以上の預言者ではないことが分かる。人は、神から賜物を与えられるとき、誘惑の危険性も一緒に受け取らざるを得ない。というのは、神は人に賜物を与えられるとき、それを彼の自由意志にゆだねられるからである。彼は、それを自由に使うことを許される。しかし、もし彼がそれを自分に与えられた使命に即して使うことをしないなら、彼は災いである。そして、人は神から賜物を戴いたからと言って、それを適切に使う力まで一緒に与えられる訳ではないのである。そこに誘惑の危険性がある。神から音楽の賜物を戴いた人は、それを自ら楽しみ、周りの人にもその楽しみを与えたいと思うことだろう。しかし彼の本当の使命は、それをもって神の栄光を現すことなのだ。かつて、イエス・キリストだけが、純粋に神の栄光を表すために奇跡を行うことができた。しかし他の人々は、時々その誘惑に負けてしまった。そして、エリシャも例外ではなかったのだ。

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