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2007/08/14

世の光

ヨハネの福音書(第8、12章)

 ブルトマンは、ヨハネ福音書は、それが綴じてあった紐が一度解けてばらばらになり、それを再び綴じるときに各頁の順序が入れ替わってしまったという錯乱説の立場をとるため、このように章を飛び越した内容の解説が随所で行われている。
 それはともかく、イエスは言われた、「私が世の光である。私に従う者は闇の中を歩かず、生命の光をもつことになる」。イエスは「世の光」と自称することにより、自分を啓示者としている。しかしこの啓示は、世間と生活の中であれやこれやの問題を解決するための啓示ではなく、むしろ全体としての自己の本来性に関わる啓示であり、自分の生き方を真剣に問う者にとってのみ意味を持つものである。
 もっとも、人は生来光を追い求めるものであり、そのように世の人も光を求めてはいる。しかし、「私が世の光である」との呼びかけにおいてイエスは、光を求める様々な試みや問いに対して何かヒントを与え、それらを正しい方向に導こうとしているのではなく、むしろその問いを、これまでに無かった新しい問いとして、今初めて呼び起こそうとしているのである。つまり、この光が世に来る前には、どのような啓示の光も世になく、世は闇であるという二元論なのである。そこで、私たちの伝道にもこのことが反映されていなければならない。つまり、私たちは世の人の人生に対して何かヒントを与えるのではなく、まったく新しい光としての福音を宣べ伝えているということなのである。イエスは、光について証しをするために世に来たのだが、また彼自身が光りそのものなのである。それは、彼の他には光と言えるものはなく、それゆえ彼は、何か自分以外について証しをすることはできないからである。光はそのように、疑い得ないような状態で世に来たのであるが、しかし世は彼を受け入れなかった。それは、世がこの光を、何か自分たちの自由になる所有物のように求めたからである。例えば、彼らはイエスを国王に祭り上げ、自分たちの利益を実現してもらおうと思ったのであった。ところが、主イエスが啓示するところの光は、そのような捉え方では、決して自分のものにすることができないものであった。
 世の人がこの光を受け取れなかったもう一つの理由は、この光がそれ以来、ずっと照り輝き続けるというのではなく、それはやがて去っていくということにある。丁度、天地創造のときに、神が光りあれと言われ、光が一瞬照り輝き、その後神が太陽や星々を造られるまでは、再び闇が世界を覆っていたように。「光があるうちに、光となるために、光を信じなさい」とイエスは言われる。それは、光がやがて去って行ってしまうことを意味している。それゆえ私たちは、イエスの光をいつまでも自分のために利用することは許されない。返って、イエスの言葉に応答し、光である彼を信じ、彼に従って行くことにより、自ら世の光となることが目指されるべきなのである。それゆえに、イエスはご自分が去っていくことを前もって弟子たちに告げられた。それは励ましと訓戒を持って告げられたのであり、それには、約束が伴っていた。主イエスが神に願って遣わしていただく聖霊が彼ら弟子たちを導き、主イエスの命令を行わせてくださるという約束である。しかし、イエスが光であることを信じない者たちに対しては、イエスがご自身が去っていくことを告げられる調子は、威嚇的な色合いを帯びていた。彼らは、イエスが去っていった後になって、そして華々しくは、世の終わりが来て、彼らが裁きの座に直面したときに、初めてイエスが光であったこと、そしてそれが今はもう世にないことを知ることになるということである。
 このことにより、私たちの宣教は、今まで意識してきた以上に緊張感を持ったものとなるべきである。イエスが今すでに世にいないこと、そして、聖霊が共におられること、さらにやがて再びイエスが帰って来られる日が近づいているということを私たちは知っており、それは、永遠の光がこの世界を貫いて光り輝き、歴史のどの瞬間においても救いと滅びを分けているということ、そして今、すべての人は、この唯一なる光に緊急的に招かれているということを意味するからである。

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