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2007/08/11

救われる人は、最初から決まっているのではないか?

 キリストを信じて救われ、天国に行ける人の数は、最初から決まっているという考え。これには、似ているが2種類の考え方があるようだ。一つは運命論で、最初からすべてが決まっていて、もう変えようがないという考え。もう一つは予定論であり、全能の神がそのように予定されていて、そうなるように神自身が事を運ばれるというもの。まあ、救われない人にとっては、どちらも同じだとも言えるだろう。しかし悩ましいのは、運命論は別として、後者の予定論は、かの有名なカルバンの考えだということだ。カルバンと言えば、私たちが属するプロテスタントの創始者的な存在だから、私たちの教理の根幹にこのような考え方が横たわっていることにもなる。
 かなり前だが、予定論には私も悩まされた。ウエストミンスター信仰告白によれば、救われる人の数は、天地創造以来決まっていて変更することはできない。そして、神は救いに定められていない人の心を頑なにするように事を運ばれるという。ちょうどエジプトの王パロの心を神が頑なにされたように。
 私は、ウエストミンスター信仰会議がどのように開催されたかを読んだことがある。それによれば、まず○○牧師が祈り、次に△△師が1時間説教し、次にみんなで1時間祈り、次にまた□□師が2時間説教し、賛美し、そのように一日中やっていたという。そして、それは参加者皆の心にいつまでも残る、生涯でもっともすばらしい時々だったという。そのような会議の結実に予定論が含まれるということは、それを安易に受け止めてはならないように私には思える。それは、神への徹底的な従順から生まれてきた考えなのだ。しかし、それにしてもそれは、人の考えなのではないのか。ある意味ではそうなのだと思う。という意味は、それは無限の世界のことを有限の世界の言葉、すなわち人の言葉で表現したものだから、それは人間の考えとも言えないこともないだろう。
 しかしたとえ、100歩譲って、救われる人の数がきっちり決まっていたとしても、その数はだれにも分からないし、示されてもいないということもまた真理である。とすれば、それは、決まっていないこととどこが違うのだろうか。それは結局、最後に滅びる人が存在するのかしないのかという問題と同じではないだろうか。もし一人でも滅びる人が存在するのなら、それは数があらかじめ決まっていようといまいと、神はある人々を救い、またある人々を滅ぼされるということに変わりないのではないだろうか。
 しかし、だれも滅びないという考え、これはエホバの証人の考え方にも似ているのだが(彼らは滅びる人は消滅してしまうので、苦しみもないと言っている)、もしそう考えるのなら、宣教の必要性もなくなってしまうかもしれない。それなら主イエスはなぜ大宣教命令を出されたのだろうか。聖書が福音を宣べ伝えよと言っている限り、滅びる人がいるということもまた真理なのである。
 それでは、だれが救われ、だれが滅びるのか。それは誰にも分からない。だから私たちは、時が良くても悪くても、一生懸命に福音を宣べ伝える。それが、神への従順であり、私たちの伝道の結果、一人の人が救われたなら、その人は、神が救いに定められていた人なのであり、それはまた、私たちが伝道した結果なのである。この2つは、神を信じ、徹底して従順に従う人にとっては、なんの矛盾でもないのである。なぜなら、私たちは永遠から永遠まで支配される神の御心がこの世界に行われることを願うのだから。

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バナナ保護ケース

Bananacase これは、バナナを鞄に入れて持ち歩くための保護ケース。何度、買おうと思ってあきらめたことだろう。ネットでしか売っていないようで、定価500円ほどなのに、送料が1000円を超える。たかがこんなものにそんなに払えるかと思っても、どうしてもあきらめきれずにいた。それが、今日ロジャースに買い物に行ったら、バナナと並んで売っていたので、思わず買ってしまった。でも、このピンクの色だけしか売れ残っていなかったから、ちょっと残念。でも、色はまあがまんしよう。とにかく、これで好きなバナナをどこにでも持ち歩けることになったのだから、よかった、よかった。

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